イニシアティブを握る。この重要性は、戦略家と名乗る者であればよく知っている。シーソーのおよぶ世界では、それはとても重要だ。
上司と部下の関係にはそれがあり、男女のあいだにもそれがある。それどころか、世界の至るところにはイニシアティブがあり、リードする者とされる者がいる。
現代は、女がイニシアティブを握っている。ウーマン・リブがその潮流を築いたとしても、要因はべつのところにある。
他でもない、金の力というやつだ。金は、力以外のなにものでもない。男が、簡単に女に給料を明け渡したとき、両者の力関係に決着をみた。
企業は、財布を握っているものをターゲットとする。
今の消費者は誰かね? 誰が中心になっているのかね?
影響力をもちうる者を、社会やメディアは優遇する。今も昔も、力につき従う姿に変わりはない。
じゃあ、どうして男はそんな簡単に力を明け渡したのか?
いや、ちがう。
明け渡したのではない。昔のままというべきだ。
女はみずからを解放したが、男は昔のままだ。時が流れても、男の時間は止まっていた。時代のながれに適応できなかったのだ。
そもそも、彼らには自由の権利がない。家を守ること、子供を育てることのみならず、化粧をする権利すら持っていない。悠長な話だが、彼らは決められた形であらねばならない。
その一方でいう。好きなことをする権利を侵害してはならないと。
昔は特権だらけだったあなたがただが、今やいったいどんな特権があるというね? あるのは、女の特権だけだよ。
そもそも男がこうあるべきとしたら、その正体はなにかね? 話のもとになる、発想そのものが間違っていないかね?
よくよく考えてみるといい。男らしくではなく、自分らしくのほうが自然と思わないかね?
が、どのみちシーソーは動いてゆく。男女が対等な関係というものは光陰矢のごとし瞬間だよ。
対等などありえない。そんなものはない。対等で立ちどまったことなど一度ですらなかった。それは、時が永遠に止まらないのとおなじようにありえないことなのだよ。
シーソーは止まらない。公平や平等、対等などはたいした問題じゃない。不平等や不公平すら、必要なものとして存在しているんだから。
この動きゆく世界のなかで、誰かがイニシアティブを握っている。
そして、そうである限り誰かがイニシアティブを握られている。男女関係であれ、上下関係であれ、そこにシーソーがあるかぎり・・・。
それでも人は、平等であるべきだという。対等にしなければならないと。平等や対等にしなければならないとね。
そんな幻想に固執するより、在るものを認めるべきじゃない?
そのなかで、よりよい関係を築けばいいだけじゃない?
その時にこそ、実りある真の対等がおとずれるのかもしれないよ。
シーソーは止まらない。――より
椎名蘭太郎