ジェンダーフリーという言葉をよく耳にするようになった。そして早くも、この言葉が敬遠されようとしている。フェミニストの一部が、この言葉を多用したことに依るものだろう。
ジェンダーフリーの意味は、おおまかには、人を男女の枠にはめない、という単純なものだ。
枠にとらわれず、好きなことをすること。男女の両方を楽しむこと。
これが、職業選択の自由と、いったいどこが違うかね?
それとも人は、生まれながらにして職業を決められないといけなかったかね?
男が男らしく、女が女らしく――などというものは、本来、避けるべきものだよ。
むしろ男が女らしくあり、女が男らしくあったほうがいい。バランスをかんがえればね。実際はそうあるべきだよ。
そもそも男女の質は違うんだから、歩み寄ろうとしても、完全に歩み寄れるものではないよ。
ただしだよ、男が女らしく、女が男らしくあれば忌み嫌われないかね?
あなたは排除しようとしはじめない?
それはつまり、彼らが少数派であるためかね?
少数派は、いつも人々から忌み嫌われ弾圧を受けてきたよ。
これは多数が多数派でいられるための保身と、少数派への嫉妬と恐怖がそうさせるのさ。
こういった行為は、人がはたらいた悪事のなかでももっとも醜いものの一つだよ。
考えてもみてほしい。多いからといって正しいわけでもなければ、少ないからといって悪いわけでもない。ただ、多数派がみずからの都合のために少ないものをつぶしてきただけ。これを醜いといわずして、なにを醜いというね。
どうして共存しようとはしないのかね?
そんなに相手のことを尊重できないかね?
少数と多数だけじゃないよ。男女はなぜ、尊重しあえないね?
つよい立場のサイドは相手を蔑視し、よわいサイドは卑屈に迎合してゴマをする。今の男女の姿だよ。
これは、嘆かわしいことじゃないかね?
今、相手を蔑視しているのはどちらかね?
そして、へりくだっているのは?
民主主義もおなじことだよ。過半数を握ったものが勝利となる決まりだが、多数派が少数派を理解するよう努めれば、なんと円熟したものになるだろうね。
白黒ですべて割り切れるものでないよ。勝ち負けで割り切れないことだってある。
男女のどちらかに、あなたを強要など、本当はできやしないんだから。いつもあなたの手には選択が握られている。
そして覚えておくといいよ。枠をはなれ、自由を得れば得るほど、円熟味が必要になることをね。
椎名蘭太郎
カテゴリー: 男と女のシーソーゲーム-椎名蘭太郎-
男の世界は終焉したのか?それとも一時的なものなのか?人類が生まれ、男と女が存在し、何万年もの間繰り返してきた男と女のシーソーゲーム。椎名蘭太郎が語る男の精神解放と女の駆け引き、そして本当の男女のあり方。
[14]Who are you?
人は、洗脳の生き物だ。洗脳なしに、人がみずからの意志によって生きることなどほとんどありえない。なにが不可能かって、自分の意志をもつことほど不可能なものはない。自分の意志とは本当に難しいものなんだから。
自分の意志と呼んでいるもの。それはいったい何の真似かね?
なにかの洗脳に過ぎないものではなかったかね? そもそも、どうしてそうでないと言い切れるね? 単に、気づいていないだけのことではないかね?
我々は男であり、女である。おそらく、どちらかだろう。それはそうであって然るべきだが、このことにどれほどの意味があるね?
女の時代の今、彼女たちは自らの性に誇りをもっている。女同士の連携をつよめ、みずからの地位をまもることに懸命となる。
女の連携とは、主に三つの理由によっている。一つに自らの性の優位のため、そして同じ土俵にたつ女同士のゴマのすりあい、最後に強敵となった女同士への警戒となる。
つまり、おのれの地位と優位をまもるための保身であり、目新しいものはなにひとつない。この種の連携は、これまでも似たようなことが繰り返されてきた。人種間のそれであり、身分間のそれである。
支配者階級は、自らの地位を守るという点においては、おなじ地位に就く者を非難することはなかったはず――。多人種の国でも、人は同人種の保身のために奔走する。いつも時代も、どこの地域でも、人がやることにおおきな大差はないよ。
どちらにせよ、そうまでして自分のことが大事かね? なにより、くだらないことにムダな神経をそそいではいないかね?
我々は、男か女かのどちらかである。その他の第三者であってもかまわないが、二つでさえうまくいっていないのに、それ以上になったらどうなるね?
我々は、男女のどちらかである。それはそうであるわけだが、それがあなた自身にとってどれほどのものかね? あまりにも、それに支配されすぎていないかね? あなたは、本当にあなた自身を生きているかね?
考えてごらんよ。
宇宙が誕生して150億年もの時間がながれた今――。
今ここにあなたはいる。それをあなたはどう思うね? そして、これまでどれほどの生命が誕生したというのかね? これからは?
無限の時のながれのなかで、我々のたったの100年が、偶然にも今ここに当てはまることを奇跡といわずしてなにを奇跡と呼ぶね。
その奇跡も、どうせ過ぎ去りし日の幻となるのだよ。我々の命など、点にもおよばぬ存在なのだから。
我々は、いったいなにに支配されて奇跡の時間をゆくね?
確かに、そうかもしれない。人は、どうあっても洗脳からのがれられないものかもしれない。それなら、せめて納得のいく洗脳をされてみたいとは思わないかね?
そもそも男であり女である、真のあなたはどこにいったのかね?
椎名蘭太郎