男女の質のちがいとはなんなのか。そんなものが、実際に存在するものなのか。
これは、れっきとして存在する。生命の本質とは関係ないが、在るものである。不安定と安定が、そのよい例だ。
男は、様々なことに挑戦するが、好きで挑戦しているのではない。不安定なために、やらずにいられないのだ。そのおかげで、彼らはスペシャリストになれる。
逆に女が挑戦しないのは、動機が見当たらないためだ。彼女らはすでに満たされている。幸せになる土壌がある。
このことは、男女の能動と受動にも関係がある。男は動かずにはいられず、女はじっと待ち受けている。また、男のなかには傑作が生まれるが、逆におかしな者もおおい。
女は、中間におおく集まっている。ピラミッドでいえば、頂点と底辺には男が集まり、中腹には女がおおくなる。これらは、昔からそうであった。男は、ピラミッドの頂点ふきんと底辺ふきんを固めていた。現在でも、その形は変わらない。
が、ヒューマニズムがひろまった今でも、底辺の彼らに手を伸ばす者はいない。話題にすらのぼらない。年老いた醜い彼らに、誰が手を伸ばすのかね。道徳的に、女は救済するものであっても、彼らを救済するいわれはないのじゃないかね。
では、質のちがいを生みだすものとは?つまり、肉体がその正体だ。中身がおなじであっても、肉体はちがう。あなたとあなたの肉体がミックスして、あなたらしきものが誕生している。腹が減ったら、不機嫌になるのはそのためだ。肉体を越えることは、普通では無理だ。ブラックホールを越えることができる者は、ほんの一握りでしかない。
男女の質の支配から、人は脱けだせない。一方、これらの質そのものは、たいした代物ではない。より厳密にいえば、男女の質に酔いしれているだけのことだ。まさしく、陶酔である。それは、LSDとコカインに酔いしれているようなものだ。どちらがLSDだってかまいやしない。あるのは、LSDの酔いかたと、コカインの酔いしれかたの特徴があるだけだ。
問題なのは、酔いしれかたを自分だと思い込んでしまうところにある。海で溺れかければ、パニックに陥る。車を猛スピードで走らせれば、誰しもが興奮する。不幸かな、パニックや興奮が、自分の本質だと受けとめてしまう。
それは、確かにあなたではあるが、一面に過ぎない。無限のなかの一つだ。このような質のちがいを見極め、男女を眺めると、より面白いだろう。
椎名蘭太郎
カテゴリー: 男と女のシーソーゲーム-椎名蘭太郎-
男の世界は終焉したのか?それとも一時的なものなのか?人類が生まれ、男と女が存在し、何万年もの間繰り返してきた男と女のシーソーゲーム。椎名蘭太郎が語る男の精神解放と女の駆け引き、そして本当の男女のあり方。
[04]男よ、美しさを獲れ
現在の日本は、男より女のほうが優遇されている、といえば異論のある者がおおいと思う。それは当然でもある。
メディアが、これだけ繰りかえし女の視点からとらえれば、そう思い込むのも無理はない。誰の視点でとらえるのか、それが力の源泉である。弱者の話題は、いつも聞き入れられない。そんなものは、初めからないかのようだ。男尊女卑の時代、女の視点は話題すらあがらなかった。
力は、とてもシビアな代物である。時代環境に適した者が、イニシアティブを握る。それは、きれい事でも理屈でもない。
昔の男は、はるかに優遇されていた。が、彼らは、女の立場に立つことをしなかった。自分たちが、優れていると本気で思っていたためだ。そのように教え込まれ、それを真に受けていた。
今は、昔よりはるかに平等だ。いやむしろ、男女の力関係は逆転した。逆転しても、やることはたいして変わらなかった。質の異なりが、細やかな違いを生みだす程度で、根本はおなじだった。
女は、男の視点に立とうとはしない。彼女たちは、本当は知っている。自分たちが、有利な立場にあることを。が、それを表面に出そうとは決してしない。
彼女たちは、自由を持っている。美しさに、力強さを求めることができる。ウーマン・リブによって、力強さを手にする権利をほぼ獲得した。それに反して、男のほうはどうだろう。力強さとともに、美しさの権利を勝ち得ただろうか?
いや、ちがう。彼らは一つだけだ。あいかわらず、古いままの楔につながれている。シーソーは反転して、反対側に重きをおいているのにだ。
権利は、求めて主張しなければ獲得できない。能力は、求めることから発生する。女が力強さを主張するなど、昔はタブーだった。彼女たちは権利を求め、実際にそれを得た。おそらく女は、実際に力強さを獲得していくだろう。
生命の進歩のスピードは、考える以上にスピーディーだ。百年まえの日本人と、現在の日本人の体型や顔形をみてみるがよい。おなじ人種とは思えないほどの変わりようだ。遺伝子はほとんど同じだろうが、遺伝子を使用する部分が変わったのだ。これが重要だ。求めるものを獲得しようと変化するのが、生命の営みである。
女は、円になろうとしている。それに対して、男は半円のままだ。客観的にみれば、バカげた話であるが、男は美しさを相手に依存したままでいる。力をうしないつつあるサイドが、相手に依存しているのだ。男にとって、美しさを手にすることなど今は想像しがたいだろう。が、美しさとは魅力にほかならない。
女には女の魅力があるように、男の質にもそれなりの魅力が備えられてあるはずだ。男が、女の質を真似したところでたかが知れている。そんなものは偽者だ。質を見極めてからはじめて、魅力を活かすことができる。特徴を活かした美しさというものがある。それを、どのように開花させるのか。――となれば、新たな歴史が生まれるだろう。
椎名蘭太郎