[04]男よ、美しさを獲れ

現在の日本は、男より女のほうが優遇されている、といえば異論のある者がおおいと思う。それは当然でもある。
メディアが、これだけ繰りかえし女の視点からとらえれば、そう思い込むのも無理はない。誰の視点でとらえるのか、それが力の源泉である。弱者の話題は、いつも聞き入れられない。そんなものは、初めからないかのようだ。男尊女卑の時代、女の視点は話題すらあがらなかった。
力は、とてもシビアな代物である。時代環境に適した者が、イニシアティブを握る。それは、きれい事でも理屈でもない。
昔の男は、はるかに優遇されていた。が、彼らは、女の立場に立つことをしなかった。自分たちが、優れていると本気で思っていたためだ。そのように教え込まれ、それを真に受けていた。
今は、昔よりはるかに平等だ。いやむしろ、男女の力関係は逆転した。逆転しても、やることはたいして変わらなかった。質の異なりが、細やかな違いを生みだす程度で、根本はおなじだった。
女は、男の視点に立とうとはしない。彼女たちは、本当は知っている。自分たちが、有利な立場にあることを。が、それを表面に出そうとは決してしない。
彼女たちは、自由を持っている。美しさに、力強さを求めることができる。ウーマン・リブによって、力強さを手にする権利をほぼ獲得した。それに反して、男のほうはどうだろう。力強さとともに、美しさの権利を勝ち得ただろうか?
いや、ちがう。彼らは一つだけだ。あいかわらず、古いままの楔につながれている。シーソーは反転して、反対側に重きをおいているのにだ。
権利は、求めて主張しなければ獲得できない。能力は、求めることから発生する。女が力強さを主張するなど、昔はタブーだった。彼女たちは権利を求め、実際にそれを得た。おそらく女は、実際に力強さを獲得していくだろう。
生命の進歩のスピードは、考える以上にスピーディーだ。百年まえの日本人と、現在の日本人の体型や顔形をみてみるがよい。おなじ人種とは思えないほどの変わりようだ。遺伝子はほとんど同じだろうが、遺伝子を使用する部分が変わったのだ。これが重要だ。求めるものを獲得しようと変化するのが、生命の営みである。
女は、円になろうとしている。それに対して、男は半円のままだ。客観的にみれば、バカげた話であるが、男は美しさを相手に依存したままでいる。力をうしないつつあるサイドが、相手に依存しているのだ。男にとって、美しさを手にすることなど今は想像しがたいだろう。が、美しさとは魅力にほかならない。
女には女の魅力があるように、男の質にもそれなりの魅力が備えられてあるはずだ。男が、女の質を真似したところでたかが知れている。そんなものは偽者だ。質を見極めてからはじめて、魅力を活かすことができる。特徴を活かした美しさというものがある。それを、どのように開花させるのか。――となれば、新たな歴史が生まれるだろう。
椎名蘭太郎