インターネットが普及し始めた頃、いずれ新聞も本もパソコンで読むようになり、新聞社、出版社、ひいては製紙業界まで危機に陥るであろう、という説がまことしやかに語られていました。子どもの頃から本好きで本を読んでからでないと絶対眠れない活字中毒の私は、いずれパソコンを枕元に置いて寝るようになるのか、それにしても途中で眠った場合パソコンを壊すこともあるだろうとちょっと不安になったものです。
その不安は杞憂に終わり、新聞も本も依然として存在し、別に目当ての本があるわけでもないのに本に囲まれている雰囲気が好きで書店のはしごを相変わらず楽しんでいます。ただ、徐々に変わりつつある点もある気がします。ゴミを減らすため夕刊を取らなくなり、インターネットのニュースを見るようになったこと。世界中の有力紙が無料で読めるというおまけつきです。雑誌も買う頻度が減り、ネットで検索して情報を収集することが多くなりました。
電車の中を見回せば、つい最近までは新聞、雑誌、文庫などを読んでいる乗客がほとんどだったのに、今は携帯でメールを書いている人、ゲーム機で遊んでいる人、音楽を聴いている人が目立ち、活字派はいつしか少数になっています。私ですら本はかさばるのでPDAでダウンロードしたメールを読んだり、音楽を聴こうかなどど考える昨今です。
活字離れしてしまう原因は出版界にも責任が大きいと思います。まず本が高い。ハードカバーで2000円すればよほど面白くない限り、何か他のものに出費した方がいい気になります。読むのが速いので2時間もあれば読み終わるような内容の本もだめです。特に、最近はベストセラーというとタレントの暴露本、自伝の類、それにハウツーものばかりで、本という媒体特有の文化の香りがしません。
友人のプロのライターが解説してくれました。商社に相当する取次店は本を作っても売れないから多品種そろえるために出版社に「もっと作れ」と言うのだそうです。粗製濫造は避けられません。自費出版のほかに協力出版(著者が出版費用を一部負担する方法)もあるそうで、ここまで本のレベルが下がればお金さえ出せば誰でも著者になれる訳です。
これでは「苦節何年、やっと認められた」というような味わいのある作家は出て来ないでしょうし、報酬が安くても辛くても文化の一部を自分が担っているという誇りで仕事を続けてきた業界人たちはどうしたらいいのでしょう。本はいつしか単なる一種の「商品」となってしまいました。
書店がない街なんて想像しただけでぞっとします。それよりもエンタテイメント一色の書店の方がもっと寂しいし、コンビニの雑誌コーナーが書店より人だかりがしているのも哀しい風景です。しかし、このままではインターネットに押されるというよりも自滅の道を書店はたどるのではないでしょうか。活字は単なる情報伝達の手段や暇つぶしの材料ではなく、文化であるという認識が作り手、売り手にない限り、消費者も内容を味わう、難しい本でもチャレンジしてみようという意欲がわかない気がします。
2001.06.15
河口容子