装置産業

 日本の百貨店は巨大な装置産業です。基本的に商品は消化仕入、つまり業者から商品を預かって売れた分だけ支払う仕組みです。売場によっては販売員まで業者に出してもらい、ブランドのコーナーなどは什器も業者持ちです。それだけリスクがないにも拘わらず業績が低迷する、中には倒産するというのは、商売の仕方や危機意識のなさといった問題以前にいかに不動産取得や建物を建て維持するのに日本ではお金がかかるかということではないでしょうか。スーパーもしかりです。高い人件費をおさえるために、ぎりぎりの人数、しかもパート社員の活用で維持しているのに同じく低迷状態です。

 総合商社に勤務していた頃、友人と議論をしたことがあります。総合商社はものを作るわけでもなく、店で売るわけでも、倉庫業や問屋のように在庫をするわけでもありません。人材だけが資産などと言われ、巨大な本社へ数え切れない部署を作って人を配置しています。ところが、取引先から見ると複数の部署にまたがって取引をしている企業はグループ企業などごく一部で、太宗の取引先から見ると何百の部署の一部課としか取引がないのです。中で勤務する社員も関係ある部課の業務内容しか知りません。それでは別に本社に人を集中させる必要はなく、それぞれ取引先に近いところで勤務をしたり、このIT時代、SOHOでもいいではないか、というのが友人の論理でした。それに対する私の意見は「総合商社は大きい建物にうじゃうじゃ人が働いているからお客さんが来る。」という皮肉に満ちたものでした。

 今問題視されている銀行にしてもそうです。都市銀行なら全国の一等地に立派な支店をかまえるのがまず信用を得ることだと考えられてきました。その建物に厳重な金庫やらコンピュータ・システムと行員をつめこみます。なぜ、ネット銀行という発想がもっと以前からなかったのでしょうか。

 バブルの崩壊、そしてIT時代となった現代、箱(建物)にモノや人を詰め込むのはもはや非合理的になっているのです。それは上述のサービス業なのに装置偏重型産業が低迷していることで証明できます。装置に詰め込めば、人の管理は楽です。遅刻をしないか、嫌がらずに残業をしてくれるなど簡単に目に
見える部分で人を判断できます。また、外部の人間からもその人の能力を見抜く必要はなく、箱のきれいさや大きさで信用することができるからです。

 こうした箱神話が続く限り、サラリーマンで一生安泰に暮らしたい人間がふえ、そのうち満員電車に我慢さえして箱に行きさえすれば、そして言われたことだけ最低限していれば給料がもらえるという発想の人が多くなるのも無理はありません。

 私の起業もこうした箱重視からの脱却の試みでもあります。自宅の一室をオフィスにし、必要な時だけ外出や出張をします。徹底的なコストの絞りこみをすれば低価格で良質のサービスを提供できます。そして取引先と協力して役割分担しひとつの事業なり、プロジェクトをすすめていきます。お互いが自己責任の世界ですから、甘えはありません。きれいな箱でも大きな箱でもないけれど、中味をきちんと見ていただける人には大変お得、そういった仕事師たちのフレキシブルなネットワークを世界中に作っていくのが私の夢です。

2002.05.02

河口容子