瀋陽の日本領事館に北朝鮮の亡命者たちが駆け込み、館内まで中国警察が入りこみ彼ら逮捕したというニュースは衝撃的でした。領事館員たちはまるでケンカの見物人状態で、中には腕組みをして見、途中で建物へ引き返して行く人もいました。その様子に緊迫感など感じられず、ましてや駆け込むのに遅れた子ども連れの女性に対し人間的ないたわりを見せることもありませんでした。「大使館の中は治外法権」というのは、学校で誰でも習った記憶があるはずです。つまり、領事館内は小さな日本で、領土であるという権利があるなら、それを守る責任も義務もあるわけです。やれやれ、ややこしいことを自分たちがしなくてすんだ、どうやってレポートしておけば丸く収まるか考えてでもいたのでしょうか。ところが、メディアは見逃しませんでした。映像が世界中に公開され、騒動になってからおろおろと外務省が動き出す始末です。
これに関連して思い出したのはペルーの日本大使館の人質事件です。私の知人が二人最後まで人質になっていました。当時のフジモリ大統領指揮するペルー国軍による救出劇がなければどうなっていたかわかりません。危険を知りながら無防備でどんちゃんパーティをやり、ゲリラに襲われたから誰か助けに来てくれ、という無責任な国は主権国家とは言えないかも知れません。
日本人は境界認識があいまいです。島国であるため、「国境」に物理的にナーバスになる必要がありません。海の「向こう」と「こちら」にその時の都合にあわせ、切り分けて概念的に捉えることができます。物理的な「境界」という認識に対する弱さが上記のような事件をひきおこしている気がします。
それに西洋人のような「契約」の概念もありません。基礎となるのは神と個人との契約だそうですが、そもそも個人と個人の境界は、成長するに従い、家族、学校、社会、国家とどんどん大きな集団の境界をもあわせ持つようになり、これにはまた、それぞれの権利、義務、責任を持っており、その集団の構成要因が担わなければなりません。ところが日本は戦後民主主義のはき違えで、なぜか「自由」と「権利」ばかりが声高に叫ばれ、「義務」や「責任」は暗く重たく、できれば逃れたいものの代名詞のように思われてきました。こういう誤った教育が日本の無秩序につながっているのではないでしょうか。
最近、痛感するのは親切にしたり、親しくなると、ずるずる甘えるというか個人と個人の境界がなくなり、権利はすべてあちらに、義務と責任はこちらに移動している場合が多々あることです。そのたびに私は相手に注意をします。そうするとだいたいは元の位置に境界は戻ります。昔なら時々反省をして自分で修正をするという機能が働いた気がしますが、今は注意をする、場合によっては怒鳴らないと修正がきかなくなっています。重症になると、理解すらしてもらえない、逆にこちらが間違っているのか、と反省に追い込まれたりする始末です。
この「境界」という概念はエゴという意味ではありません。権利があると同時に責任と義務も必ずつきまとうものです。特に日本人は何かこわいもののように、あいまいにしてしまいがちですが、「大人」になるためには必要な認識のひとつだと私は思います。
2002.05.16
河口容子