無職の重みといのちの軽さ

 最近、頻繁に起こる殺人、強盗、誘拐などの残忍な事件。犯人の名前の前に「無職」という響きを聞くたびに「失業率の増加イコール犯罪の増加」という刷り込みが脳の中にされていくような気がします。幼児虐待を含めたドメスティック・バイオレンスの事件簿にも「無職」の人がよく登場します。

 会社員を辞めて自分の会社の登記が完了するまでの9日間は厳密に言うと無職でした。その時しみじみ気づいたのですが、通販でものを買ったり、何かの会員になる場合のみならず、アンケートや懸賞の応募など、ありとあらゆる場面で職業を書かねばなりません。既婚の女性なら「主婦」と書けますが、未婚の私は主婦にはなれません。「無職」でしかないのです。この時ほど今まで24年間当たり前のように「会社員」と書いていた自分がひどく恩知らずに思えると同時に「無職」という言葉の持つ暗い重圧、あたかも世間から抹殺されたがごとく嫌だったことはありません。

 職業とは不思議なもので、名前より年齢より重さを持ちます。読者の方からいただくおたよりにはハンドルネームしかなくても、年齢は書いていらっしゃらなくても、9割以上の方が職業をまず書いておられます。日本人は何か職業を聞いただけでその人の価値を評価したり分類してしまうような癖があります。しかし、主婦であっても年齢から性格、生活パターンもまちまちであるように、会社経営者であっても世界的に有名な企業の社長もいれば、借金だらけで夜逃げ寸前の社長だっているわけです。  そんな日本で「無職」になれば60歳くらいになっていない限り、理由は何であれ、あたかも悪いことをしているかのような目で世間から見られます。経済的な問題もさることながら、帰属する社会や組織がないことが孤独感、焦燥感をよりつのらせ、内へ内へと追い込んで行き、自殺したり、他人、それも弱者を殺めるという形になって爆発するのだと思います。我慢しないで、もっと社会全体や政治に対する怒りや運動となって現れてもいいのではないでしょうか。

 フィリピンに行った時聞いた話ですが、「ここではマンゴやココナッツを食べたいと言えば持ち主は自分で食べる分くらいなら断る人はいない。」とのことでした。そのくらい、自然に恵まれ、また最低限人のいのちを守るというルールができています。そういう風土があれば、550円のおにぎりをコンビニで万引きする必要もなかったし、とがめた店長が落命することもなかったはずです。

 日本は江戸時代の職人は宵越しの銭は持たないというほどきっぷが良かった裏には、長屋住まいも含め何でもレンタルの超合理主義社会、月に7日も働けば十分一家が暮らせたそうで、とにかくストレスのない元気なお年寄りも多かった社会と雑誌のコラムで読みました。また、人情のある社会でもありました。

 長引く景気の低迷とともにどんどん軽くなるいのちです。それも周囲の人が気をつけていれば、社会全体でやさしく支えあうしくみがあれば救えたいのちも少なくありません。乾いた心にも水を一杯。

2002.08.01

河口容子