ソルトレークで日本がわかる

 このエッセイを始めたころ、シドニー・オリンピックがありました。今度は冬のオリンピックがやって来ました。長引く不況に、増加する失業、疑惑がつのる政官そして一部の民の癒着とどこを向いても不安や怒りがこみあげる時代背景の中、ウインター・スポーツの祭典、ソルトレーク・オリンピックは一抹の清涼剤として誰もが明るい感動を期待していたはずです。ところが、ふたを開ければ、日本にとってみれば失望とオリンピックのあり方についても疑惑だけが残り、後味の悪いイベントとなりました。

 まず、長野のメダル10個が単なる偶然、あるいはホームでの有利さだけとしか思えない少なさ。私自身ははメダルの数にはこだわっていないものの、里谷選手、清水選手のふたりが長野の金を色を変えての受賞のみ。2回連続ということでこれはすばらしい記録ではありますが、次のエースに座を譲るというわけでもなく、「将来の組み立て」に苦心する日本の姿そのもののように見えました。

 マスコミのはしゃぎすぎ。彼らは日本選手の本当の実力を知っていたのでしょうか。「メダルが取れるかも知れない。」と大げさに騒ぎたて、当のご本人たちも「その気になった甘さ」があったのではないでしょうか。よく職場で見かける自信過剰の若者、いざやらせて見るとふだんその若者が軽蔑しているような簡単な仕事さえ、まともにできない、そこで今度は自信喪失に陥るといったシーンまでオーバーラップしました。私はそういう若者を見かけると親御さんが過保護だったのだな、と思います。

 あいつぐ審判の不祥事もありました。審判は公正忠実な仕事ぶりで大会を支える重要な役割をになっています。もともとフィギュアで芸術的な「印象」を点数に換算すること自体が無理で、容姿や衣装も影響するはずです。平たく言えば「好み」の世界、不公平は最初からわかっている気がします。技術力と芸術性のどこに線を引き、融合させるかが今後の課題です。また、ショートトラックでの日本や韓国選手に対する失格は欧米優位主義イコールアジア蔑視が見え見えでした。日本の経済力がもっと強かった次代ならこんな意地悪はされなかったのではないかともふと思いました。

 実は子どもの頃からずっと疑問に思っていたのはウインター・スポーツだけでどうしてオリンピックがあるのかということです。それでもいつの日か熱帯の国々も冬季オリンピックに現れるかも知れないと夢を持っていました。今の冬季オリンピックの種目はそもそも欧米のものです。しかも一定の気候条件が必要で用具も施設も必要です。日本は1億2000万の人口がいますが、この先進国でもそんな条件に恵まれた人がどれほどいるでしょうか。一方、夏のオリンピックは身体能力さえ優れていれば出場できる種目はいくつもあります。  国際大会が少なかった昔、確かにオリンピックは楽しみだったし、多くの人がスキーやスケートになじむきっかけともなったことでしょう。毎回テレビの放映権はつり上がってビジネスとしてのオリンピックになり、欧米だけでメダルを分けあって喜んでいるようなら今の南北問題、地球を一握りの北半球に住む人々が牛耳っている構図を再確認するだけのものとなってしまいそうです。

2002.03.21

河口容子