消費不況を考える

 「消費不況」という言葉がすっかり定着し、小売業の倒産、閉店も日常茶飯事となりました。バブルの頃、安いものを買いに行くと店員に鼻であしらわれていたのに最近はどんな安いものでも親切丁寧に応対してくれます。また、スパイラル・デフレで時代が逆戻りしたかのように価格がどんどん下がり消費者にとってはうれしいものの、買いまくる元気が出て来ないのはなぜでしょうか。

 「信用失墜による不安感」。誰もが「不安」という言葉を口にします。未曾有の財政赤字で高齢化に少子化と来れば、長生きしても年金がちゃんともらえるか不安。サラリーマンはいつ自分がリストラの対象となるか、会社が倒産するか不安。頼みの綱のお金も超低金利の上に金融機関の破綻により、どこへ預けたらいいか不安。最も信頼できる相手に裏切られた感じを皆持っているのではないでしょうか。財布のひもをしめることが簡単かつ最後の自衛手段です。

 特に最近は、お金を持っている中高年層の財布をあけさせよう、ということでこの層をターゲットとしたマーケティングに目が向いてきたと聞きます。しかもこの年齢層はこれからますます人口がふえていきます。ただし、分別のついた大人は流行や宣伝などで惑わされないし、年を経るごとに趣味嗜好から財力、ライフスタイルと格差も広がっていきます。若者向けのようにワンパターンの仕掛けではモノやサービスは売れません。

 自分の例をあげると、会社員を辞めて自宅で起業したとたん、ほとんどお金を使わなくなりました。毎日通勤をしていると洋服や靴もいろいろほしくなりますが自宅がベースとなるとストックで十分です。会社の帰りに飲食や買い物ということもありません。個人的に見れば大変節約になりますが、こんな人ばかり増えたらお店はどんどんつぶれていくでしょう。

 思い出したのは、私が異動をしたり、退職をした時、職場や取引先で歓送迎会をやってくれたことです。ギフトをいただいたり、こちらからお礼をしたりと、ざっと数十万から百万円程度のお金が動いています。私自身は慣習や義理だけでこういう事をするのを好みませんが、経済効果から考えると莫大なものです。勤めていれば毎月きちんと給料をもらえるが、出ていくのも多い、つまりキャッシュ・フローが元気だと経済も元気という良い証拠です。

 高年齢層は確かに貯蓄もあり、年金も安定して入ってきます。それでも積極的に働いて得たお金でないとなかなか使いにくいものです。また孫にお金がかかるという人もいます。そこで高年齢層も大した金額でなくても何か仕事があれば、精神的にも活性化しますし、社会と能動的に接点ができ、お金を使うようになると思います。働いた分だけ全部使ってもいいではないですか。

 ひと頃「定年の延長」や「労働人口の減少を高年齢層がカバーする」という論議がさかんになされていましたが、「中高年のリストラ」ブーム以来、年齢だけで社会からつまはじきされる傾向が見られます。人間を何十年もやってきたということは何らかの優れた点を誰もが持っているはずです。それを見出して活用することは社会にとっても利益になるし、そこから得たお金が再び社会を潤すという循環ができれば消費は伸びるとふと思いました。

2001.03.09

河口容子

失われたコミュニケーション

 先週は日本人の「所有欲」について勝手な考察をしました。この所有欲のおかげで新しいモノを次々と買うために日本人は勤勉に働いてきたし、メーカーも手かえ品かえ新製品を発明し、広告の手法もどんどん進化したので悪いことだと決めつけられませんが、何でもかんでも自分が所有してしまうと、何が起きるかを今週は考えてみたいと思います。モノを所有するといつでも好きな時に好きなように使えます。他人に気兼ねをする必要はないのです。

 昔、テレビが一家に一台しかなかった時代は「チャンネル争い」がつきものでした。子どもはアニメ、お母さんはドラマ、お父さんは野球と見たいものが違います。そこで話あいやルールぎめがなされます。電話にしてもそうでした。図書館で本を借りるには貸し出しの係りの人と会話をせねばなりませんし、ルールどおりに返却することや次に読む人のために本を汚さないことにも注意したものです。

 日本がだんだん豊かになり、いつしか一家にテレビは部屋の数ほどあり、電話も家庭の電話に子機、携帯とモノがあふれるようになると、もう遠慮はいりません。使うためのコミュニケーションもルールもなくなってしまいました。コミュニケーションがなくなると当然人間関係も希薄になってきます。これは家庭内のみならず、各人が所属しているコミュニティでも同様だと思います。昔なら家族の目が届かなくても近隣の人の目で犯罪の芽は摘み取られていたし、困ったときには必ず誰かが指導したり、面倒をみてくれていた気がします。

 何でも勝手にふるまえることに慣れてしまった現代人はがまんがきかなくなり、他人を気遣う心を忘れています。それが続発する幼児虐待やドメスティック・バイオレンスにつながっている気がします。

 都会に住んでいると何年も隣近所に住んでいるのに家族構成がわからない、職業も知らないといったことが普通です。こういった現象は家庭内にも及んでいます。このシリーズの第2回め「寒い家族」でも書かせていただきましたが、あるべき一言の会話がないために家族を死においやることもあります。一度希薄になった関係の修復はむずかしいものです。

 私が起業してから、ある雑誌の記事をご覧になった方々から起業の相談を電話で受けました。もちろん面識もない方々です。何らかのアドバイスをできればと思うもののその方のバックグラウンドは一切わかりません。家族や友人もいるはずなのになぜ見たこともない私に何度も電話をかけてまで相談したいのでしょう。確かに第三者の無責任なアドバイスが客観的な意見として参考になることはあります。ただ、ここに私は現代人の孤独を見た気がしました。家族や友人の見ているのはその人の肉体だけ、心の中までは見えていないと。

 通信手段のめざましい進歩で知りえなかった人とも交信できるというありがたい時代に生きながら、本来あるべきコミュニケーションが失われていくのはまったく皮肉なことです。

2001.02.23

河口容子