[286]春の嵐と宿命

 昨年11月の恒例のベトナムでのセミナーには日本から買い付けミッションを出しました。その際、会社員の頃から取引をさせていただいている知人が参加してくれました。その成果としてベトナム製の革製ブーツがある大手靴メーカーの展示会に並ぶことになりました。ミッションに随行したベトナム大使館の L商務官をお誘いしたところ多忙の中、彼の上司である商務参事官と一緒に行きたいとの連絡をもらいました。
「どうやって行くのですか?」とたずねると「車です。」「タクシーですか?大使館の公用車ですか?」「大使館の車です。」「運転手さんは道がわかりますか?」「運転手?」「ドライバーは?」「僕。」 L商務官は読み書きも含め日本語は堪能ですが、東京の道がわかるかどうか心配です。「カーナビはついていますか?」「ついています。」「その車に私も乗っていいですか?」「いいですよ。訪問先の住所を持ってきてください。」「では9時半に伺います。」「河口さんはそんなに早くて大丈夫?」「自宅から近いから大丈夫ですよ。」
 当日は台風なみの風雨、まさに春の嵐です。レインコートとブーツという重装備で大使館に着くと、駐車場は当たり前ながら外交官ナンバーの車が20台近く。外交官ナンバーの上3桁は国コードなのだそうです。つまり通が見ればどの国の公用車かわかるというわけです。大使の車にはベトナム国旗「金星紅旗」が飾られていました。
 ナビゲーター役をせねばと助手席にさっさと座りこんだ私に商務参事官が後ろに座れば良いのにと気遣ってくださいました。行先を入力してさあ出発です。小柄でいたずらっ子のような L商務官はカーナビをおもちゃのように操りながら私の不安もよそに堂々の運転ぶりです。
 商務参事官は最近交代されたばかりですが、旧ソ連で日本語を学ばれ、2度目の駐在とあってネイティブなみの日本語力です。商務参事官は私の勤務していた総合商社のことをプロジェクト名から駐在員名にいたるまで実によくご存知で1986年にホーチミンに日本の商社の中で始めてオフィスを開いたこと、20年記念パーティにも出席されたこと、そして「あんな時代から本当にいろいろベトナムのためにやってくださいました。」とお礼を言われました。これは外交辞令なのかも知れませんが、人間は思いもしないことを簡単には口にできないものです。これがベトナム人の義理堅いところと思うと同時に、こういう方と春には珍しい嵐の中に同じ車に乗り合わせるのも不思議なご縁、宿命のようなものを感じました。10年以上も前、会社員の頃からベトナムの企業とは何のためらいもなく取引をしていましたが、別にエキスパートではありませんでした。起業後、アセアン諸国の仕事をお引き受けするようになっても特段ベトナムが好きだったわけでもありません。それでもベトナムの政府機関がお声をかけてくださった。これは宿命以外の何ものでもありません。
 さて、展示会では社長をはじめスタッフ全員大喜びで私たちを迎えてくださいました。このメーカーはたくさんのブランドを有しており、その製品は全国の著名百貨店約40店舗で売られています。実は以前、私も香港向けに 6,000足ほど仕入れさせていただいたことがあり、個人的にも好きなブランドがあります。数あるメーカーでこの企業がベトナム製のファッション・ブーツを取り上げてくれた第1号になるとは予想もせず、これもまた宿命なのかも知れません。中期的にはベトナム市場での販売、ベトナムを基点としての海外輸出も考えているようです。
 帰り道は「ひどい雨ですからオフィスまでお送りします。」とおっしゃる商務参事官に「とんでもございません。大使館までご一緒させていただくだけで十分です。」とお断りすると、大使館の近くでランチをご馳走になり、 L商務官が駅まで車でまた送ってくださいました。彼らにとっても買い付けミッションの成果が出たことがよほどうれしかったのでしょう。日本からベトナムへの大型投資は基幹産業の育成になりますが、労働集約型産業はほとんどありません。今回のような中規模のビジネスも日本では後継者がなく失われていくスキルの移転とベトナムでの庶民の雇用につながります。ひと安心する間もなく私は次の仕掛けに向けてベトナムへの旅支度です。
河口容子
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[282]日越ビジネスフォーラムにて

ここ 2-3年、ベトナムに関するセミナーは満員御礼どころか、だいたいは抽選で当たれば聴講できるのが普通です。先日はグエン・フー・チョン国会議長が70名のミッションを率いて来日、日越ビジネスフォーラムに運良く出席することができました。出席の盛大な拍手(出席していたベトナム人は全員起立)の中現れたチョン議長は白髪で小柄、やさしげで品の良い方でした。私自身、ベトナムに行くたびに感じるのは組織のトップの方にはやさしくて品の良い方が多い事です。有能かつ人格的にもすぐれた人がトップになるのは当然と思うものの、日本ではそういう基本的なことは忘れ去られているような気もします。
チョン議長がスピーチの中で日本との長い交流の歴史を強調されていましたが、2008年3 月13号「続 夢を紡ぐ人たち」の最後で触れたように65年前の日本もベトナム進出にわきました。当時の新聞によると大資本輸出入業者は近代的産業(造船、精米、木材、採油、化学合成、倉庫業など)へ、中級輸出入業者は開拓、綿花や麻の栽培へ、中小輸出入業者は続々と小売部門に参入とあります。ある企業はベトナム人経営のレコード会社に対し資本、技術面で参加し南方における唯一のレコード製造基地を確保したとも書かれています。日本の敗戦、ベトナム戦争とともに潰えた繁栄の復活を願う気持ちがきっと日越双方の人々に脈々と受け継がれているに違いありません。
日本からの投資額は順調に伸びています。ところが他のアジア諸国からの投資が急増、1988年からの累積投資許可額では韓国、シンガポール、台湾に次いで日本が 4位となり、投資実行額では日本が 1位、つまり実効率の高い優等生としての面子をかろうじて保っているという按配です。
たとえば在留邦人の数は 4,700名あまりなのに対し、在留韓国人は34,000人です。私自身、ベトナムの韓国系メーカーといくつもコンタクトをしていますが、中小企業でも勇猛果敢に単独で進出しています。日本の中小企業にあっては今までそこまで貪欲にならなくてすんだ「幸福」が転じて国際化が遅れた「不幸」をかみしめている気もします。
ベトナムは日本を唯一の「戦略的パートナー」と公言している以上、日本への期待も大きく、欧米とは違う視点でのリーダーシップ、つまりアジア文化と先進工業技術の共存、 ODAによるインフラ整備・制度支援、民間企業による資金・技術・経営ノウハウ、人材育成、日本市場の解放を求めています。日本国内は問題山積で大きな期待にへこたれ気味ですが、ベトナムは2006年にはズン首相、2007年にはチェット国家主席、今年はチョン国会議長と大物を日本送り続けています。さすが米国と中国の両大国を追い返しただけの粘り強さと戦略的頭脳です。
実はこの日、私が会場に着いたのは開会直前でほとんど席がありませんでした。やっと見つけた席の隣の若い女性に「この席は空いていますか?」とたずねたところ愛想良く「はい、空いています。どうぞ。」と答えてくれました。プレゼンテーションを聞いている最中やおら彼女は携帯電話と PDAを書類カバンから取り出し、左手に携帯、右手に PDAを持って同時に操り始めました。「ひょっとして日本人ではないのかしら。」と思ったのですが、先ほどの日本語の対応といい、メイクや服装といいまったく違和感はありません。そのうち隣の初老の男性との会話がもれ聞こえて来ました。彼女は日本で働くベトナム女性だったのです。その日本語の巧みなこと。となれば同じ列のラップトップPCをひざにのせてせかせかと打っていた女性もベトナム人だったのでしょう。ベトナム人は昭和30年代の日本人の気質と似ていると言われています。若い世代が圧倒的に多い人口比率のうえに、しかも理系の能力が高く、 ABU大学ロボットコンテストでは 6回中 3回優勝(日本は 1回のみ)、数学オリンピックも上位の常連です。彼らは少子高齢化、子どもたちの理科離れの進む日本を救ってくれるかも知れません。
河口容子