晋江でのファッション・ショーのために用意したデザイン画の出来栄えには日本人の感覚としては自信があるものの中国の方たちがどのように受け止めてくれるのか不安でした。過去に日本企画のアパレルを香港や上海に輸出していましたので大都市の傾向はわかるのですが、この W社は地方都市に強いと聞いていたので手探りでの挑戦でした。2008年 6月19日号「夢への挑戦」で書いたように中国でのデザイン・ビジネスはここ数年来の私の夢でもありました。「小さな一歩かも知れませんが私の夢をかなえてくれた W社に感謝いたします。」と私はステージの上からスピーチを行いました。そして、「日中のビジネス交流のみでなく文化交流事業として、日本の若手デザイナーが W社の発展を支え、また日本の若手デザイナーの世界最大の市場への登竜門としてこのイベントを続けていただきたい」ことをお願いしました。演壇の横に出ておじぎをする私に惜しみない拍手が降り注がれました。
総合商社からコンサルタントへ、いずれも黒子の世界ですからこうやって表舞台でたくさんの方から拍手をいただくことはめったにありません。多くの方に喜んでいただける仕事をする、これは今まで私の生命を支えてきてくださった方々への間接的な恩返しでもあります。1
ショーの後、宴会場の入口周辺で飲み物が配られ始めると英国人の金融コンサルタントや中国系カナダ人の銀行家が「とても良かったよ」と握手をしに歩み寄ってくれました。 C総経理も「成功です。私たちこそ夢をかなえるのに尽力していただいたことを感謝します。」とおっしゃってくださいました。日本デザインを着用したモデル二人も会場に残り、そこには一緒に写真を撮ろうとする参加者が殺到しました。壁面には入選作のオリジナル・デザイン画とデザイナーの写真が貼り出されてあります。それを 1点 1点楽しそうにながめる人、「これが好き」などとわいわい仲間とはしゃぐ人、人、人。彼らをスクリーンに映し出される日本の若手デザイナーたちがやさしく微笑んで見ています。
実は2008年 9月25日号「晋江の旅(1)」のサイコロ・ゲームを仕切っていたこわい顔の小柄なおじさん H氏(天津の問屋のボスです)を初日にしてムード・メーカーかつキー・パーソンと見抜いた私は朝から顔をあわせるごとに「ニイハオ」とご挨拶攻撃。この人に嫌われると台無しという直感がしたのでしょう。功を奏してか H氏もグラスを片手に周囲に聞こえるように「良かったよ、あれは売れるね。」
この夜の宴会はまたもや中華ですが、昨夜より人数が増えたので 3テーブルとなりました。私たちのテーブルは英国人、カナダ人、香港人だけ。香港の金融コンサルタントが「CCTV(中央電視台―国営放送)4(チャンネル)チームだね。わかります?」と言いました。「英語放送のことでしょう?見ました。」と私。私たちのテーブルは英語。他のテーブルは北京語や福建のお国言葉が飛び交っているようでした。
他のテーブルから誰かが乾杯にやってくると皆起立してそのたびに乾杯、自分たちからもグラスを持って他テーブルへ乾杯に行きます。「これでは血圧の不安定な人なら倒れるかも知れないわ。」と隣に座った香港人女性に話しかけると「中国で成功する条件として男性はお酒がたくさん飲めること、女性は美人と言いますよ。」「じゃあ、あなたは十分すぎるじゃないの。」「いえいえ、あなたほどでは。」と女性どうしでエール。
日本人男性の 9割以上は私のことが苦手か嫌いです。小うるさい、仕事中毒、こわいもの知らず、それを通り越して「脅威」という人までいます。「仕事に厳しすぎる」と上司にまでぼやかれたほどです。ところが、中国人から見ると美人に見えるらしく、まさに捨てる神あれば、拾う神ありです。女性に気分良く仕事をさせて自分も恩恵にあずかろうという点では中国人男性は日本人男性より何枚も上手と感じる瞬間です。いつも私の周辺にいる香港の男性群に北京からの来賓の国際弁護士、神舟ロケットの関係者、日本語の片言を並べてはすり寄って来る台湾人のお兄さん。中国系カナダ人の銀行家の「この後ドバイへ行くから一緒に来ませんか」を 2日間断り続けました。 C総経理は「ありがとうございました。」を繰り返し、握手した私の手をじっと握っていました。広報の写真班はもういないのに。あれほどこわそうだった天津の Hさんもホテルの玄関に立っている所を「イー、アル、サン」と声をかけて写真を撮ると初めて照れくさそうに笑ってくれました。
夜遅くホテルのすぐそばの水辺(晋江の支流でしょうか)から次々と花火が上がりました。ちょうど15年ほど前の同じ季節にコペンハーゲンでチボリ公園の冬の閉園を告げる花火をこうやってホテルの窓からぼんやりと眺めていたのを思いだしました。晋江の花火は何の目的だったのか聞くのを忘れてしまいましたが、ファッション・ショーの成功を華やかに彩る思い出として心の中のアルバムにずっと残り続けることでしょう。
河口容子
[308]晋江への旅(2)いよいよファッション・ショー
話は先週号に続きます。晋江での詳細なスケジュールなど誰にもわかっていませんでした。アセアンの仕事はこういう事もよくありますので慣れています。私自身は準備なしに即対応できてこそプロだと思っていますので不安どころか興味しんしん、次は何が起こるのかしらとテンションが上がってしまいます。
到着した翌日の朝、香港人の D氏と外国人用コーヒーハウスでおちあい朝食を取ることにしました。何と W社はロンドンでの株式上場を準備しており、英国人の金融コンサルタント、中国系カナダ人の銀行家、香港人女性の通訳が続々と集結しました。香港人の訪問者たちはずらりと14階に部屋があるようで、最上階である15階に私の部屋があると知って昨日は「なぜ?」という顔をした D氏ですが、英国人、カナダ人も15階にいることがわかり、ショックの色を隠せませんでした。香港人は本土の中国人とは違うというプライドがあるからです。なぜフロアを分けられてしまうのか。英語のほとんど通じないホテルだけに単純に北京語がわからない人たちを隔離しているだけと私は思ったのですが、香港人たちはそうは思えなかったようです。
午前中は工場見学です。ホテルから工場の大きなロゴマークが見えるくらい近く、車を連ねて5分ほど。門に続く赤と金のドラゴンの歓迎のアーチを 3回くぐります。中規模の工場ですが2棟あり、社員寮も隣接しています。シューズやアパレルのショールーム、モデルショップの展示もありました。おそろいのグリーンのポロシャツを着た大集団が大会議室にいるのに遭遇。聞けば全国 600店舗の店長や仕入担当者、問屋が発注をかけているのだそうです。この日で半年分の注文が確定するのです。真剣かつお祭り気分。
応接室では、薫事長(経営者の長)の義理の弟さんが鉄観音のお手前でもてなしてくれました。福建はお茶で有名です。中国では客人に主がもてなすのが風習。この会社は同族経営ですが、静かで知的、上品な一族です。日本では会社訪問をするとたいてい女性がお茶を運んで来て立ち去りますが、中国式が本来の姿ではないかと思います。
ホテルに戻り、ランチは香港のIT関係の企業と別件の打ち合わせ。男性 2名と女性 1名ですが、皆いとこ同士なのだとか。彼らは 3時半から始まるファッションショーの準備にやって来たのです。昨夜は夜を徹して準備をしたという割には元気いっぱいです。
そして、いよいよファッション・ショー。私たちの泊まっている 5つ星ホテルの大宴会場に大きなステージが組まれました。ランウェイの両側には 300人を越すグリーンのポロシャツ集団。中国全土から集まった販売店、問屋の皆さんたちです。ステージ奥の巨大スクリーンに映し出される画像、モデルたち、音響、スモークと先進国で見るファッション・ショーと何ら変わりはありません。ここが晋江であることを忘れてしまいそうです。
来年の春夏コレクションが紹介された後、「香港プラス日本」という国際色を打ち出したラインの紹介。いよいよ日本の若手デザイナーの作品のお披露目です。ファッション・ショーの日が突然半月ほど前倒しになったため 100点近くの入選作のサンプル作製は間に合わなくなり、あきらめていたのですが、D氏が頑張ってモデル 2名分を香港で仕上げてくれました。中国人の好きなビビッド・オレンジをテーマにし、日本のストリート・ファッションのトレンドを取り入れたおしゃれなスポーツウェアです。
「司会者が紹介する、あなたはステージに上がる、モデル二人がランウェイを先に歩き、袖に入ってからスピーチをお願いします。」香港の広告代理店の台湾人のディレクターにこう言われたのがショーの始まる 5分前。スピーチは日本出発の 2日前に依頼されたので用意しましたが、ファッション・ショーのステージに上がるとはまったくの想定外。もともと絶対失敗だけはしないという自信があるのですが、ステージの上にまで上げてもらえるなら大成功にするしかない、それがデザイナー17名の気持ちを背負った小さな私の責任です。
カクテル・ドレスを着たエスコート・レディが私を壇上へ案内してくれました。さあ、私の出番です。おじぎをしてから演壇の前に立つとモデルの登場です。スクリーンにはこのプロジェクトに携わった日本のデザイナーの写真やビデオが順々に映し出されていきます。私の頭にも 4ケ月の出来事が浮かんでは消え、浮かんでは消えていきました。ショーの結果は来週号をお楽しみに。
河口容子