[235]日本人にとって学歴とは何か

 バージニア工科大学の銃乱射事件が韓国系学生によるものとわかった時の韓国の衝撃はかなり大きかったと思います。ノ・ムヒョン大統領が哀悼のメッセージをTVカメラの前で伝え、韓国の駐米大使の謝罪に対しては「個人の犯罪に対し謝罪する必要はない」という非難もまきおこりました。韓国系アメリカ人、これは中国の朝鮮族出身を含め朝鮮半島にルーツを持つ人をさすようですが 216万人弱。一方、日系アメリカ人は 100万人という説ですので 2倍以上大きな民族グループです。これらの人々が米国人社会で冷遇されたり仕返しにあわないよう気遣っての謝罪発言であったろうと私は推測します。メディアもチョ容疑者が孤独な青年であったことや貧困からの精神的な屈折などその個人の特殊な状況を強調しての報道をしており人種や民族問題に及ばないような配慮をしているように感じました。
 バージニア工科大学は州立で 2万 6千人ほどの学生が学ぶ同州最大の大学です。米国のエリート大学が星の数ほどの著名人を各分野にわたり輩出するのに比べ 135年の歴史を持ちながらこの大学の卒業生に著名人は数えるほどです。ある報道によればこの大学に学ぶ韓国系の学生は 460名、中国系は 500名、日本人20名と出ていました。この韓国系と中国系の圧倒的な多さは何なのでしょう。もちろんチョ容疑者のように米国に居住する人と本国から留学している人の比率はよくわかりませんが、米国への日本人留学者数が2000年以降 4万 6千人台で推移していることを考えると日本人にはあまり人気のない大学なのかも知れません。
 私が学生だった1970年代は海外に留学できるのは本当に優秀でお金持ちか海外にゆかりのある人だけで、特に女子学生の場合は「嫁入り前の娘がひとり海外で暮らすなんてとんでもない」という時代でした。バブルの頃になると「女性が男性と伍して社会で生きていくには留学くらいしていないと」というように社会の風潮が逆転したと同時に「日本の有名大学に入れないならいっそ留学したほうがカッコいい、地方から東京の大学に行かせるより経済的」という考え方も登場します。最近は就職するのが嫌だから海外へ留学していつまでも学生のままでいたいという人たちもいます。
 日本の経済成長とともに留学はステータス・シンボル→差別化→世間体→方便と大衆化した(裾野も広がった)と言えますが、この動きはすでに中国でも見られており、東京の日本語学校の教師をしていた知人によれば中国の有名校(重点校)に入れないのでいっそ日本の大学へ行かせて箔をつけようという金持ちの子弟が最近は多く、過去によくあった語学留学生は仮の姿で本当は就労目的という暗いイメージとは違い、最新機種の携帯電話を持ち日本人の若者をしのぐほどのファッショナブルな中国人留学生もふえているそうです。
 教育にも国際化の波が押し寄せるのは自然の流れと思うものの、不思議な事件が大阪市でおきました。市の職員の1100人以上が学歴の逆詐称をしていたというものです。短大・大学卒業者が高校卒業者以下でないと応募資格のない職種に最終学歴を高卒として応募していたという事件です。そこまでしても公務員になりたかったなどというのが理由らしいのですが、そんな発想や行動の人々が大阪市役所の管轄内だけでもそれだけいるということに驚きを覚えました。私自身は学歴社会、つまり学歴により職業の貴賎が生じたり、人間そのものに対する評価が変わることや大学教育イコール職業教育であってはならないと思っています。ところが日本では良い大学イコール良い仕事イコール社会的成功という思い込みがいまだに続いているために学歴を取得するためにだけ大学へ進学する人が増えすぎ、また成績が悪くてもお金さえあれば入学できる大学もふえたことが今回の事件の背景にあるのではないでしょうか。日本に大学の数は多く、また教育水準が非常に高いところも少なくないのに国際的な評価はいまひとつです。私にとって大学教育の意味やあり方を考えさせられたふたつの事件でした。
河口容子
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[234]英語が苦手な日本人

 英語を母国語とする人たちから「あなたは実に英語が上手」とびっくりされます。ネイティブ並みならびっくりはしないと思うので英語の苦手な日本人としては珍しいというような皮肉もこもっているのかと勘ぐったりもします。そしてだいたい次のような会話に展開していきます。「あなたはどこか外国にいたことがあるのですか。」「いいえ、一度もありません。短期の出張だけです。プライベートで海外旅行にすら行ったことがありません。」「じゃあ、英会話の特別なレッスンを受けましたか。」「そんなものには行ったことがありません。」「ああ、大学で英語を専攻したのですね。」「いいえ、専攻は教育学です。専門はカリキュラムと教育方法学です。」「じゃあ、どうして他の日本人は英語が話せないの?」
 この理由を私なりに分析すると、まず日本ではさしせまった必要がないことです。国内市場が大きく、英語が話せなくても十分職があります。また、情報や映画、書物、ソフトウェアの類もすぐ日本語版が出てきます。英語を使わなくても十分生活をエンジョイできるので、趣味や教養としての英語になりがちです。一方、途上国は経済を外資に依存している国が多く、外国語ができるとできないとでは収入も出世のスピードも違います。中国でもこの10年ほどで英語が話せる人が急増したので、「文字が違う」「文法が違う」などという説は単なる言い訳にすぎなくなります。ハングリー精神こそ上達の道とも言えます。
 次に教育法の問題です。私の世代なら公立の中学、高校へ行けば 6年間、それも週に何時間か英語の授業がありました。それだけ学んでも多くの人が話せないどころか何年、何十年と教えている先生すら話せないとなれば、これは教育法の間違いとしかいいようがありません。それでも改善が遅々として進まないのは英語を話せる教師の確保が難しいからです。英文法と読み書き中心にすれば、教えるほうもマニュアル仕事ですみ、全国津々浦々まで同じレベルの教育を施すことが可能になります。
 私自身は公立高から推薦入学で大学に進学したので受験英語も勉強したことがありません。大学はカトリック系でしたので、ミッションスクールの卒業生が多く、また帰国子女も多かったため英語力に関してはかなり劣等感を味わうはめになりました。原因は受験英語の勉強をしなかったからではなく、単に英語を使用する機会が足らないという差だけです。英作文の時間、高校までは模範解答どおりにできないと思い切り×をくれる先生が主流でした。大学では外国人の先生が多く、どんな書き方をしても意味が通じれば○をくれました。文法や単語をぎちぎちと暗記するより発想力や語感の勝負です。
 とっさに自分の単語力を駆使して何かを表現する、これは特に会話に必要な能力です。読み書き中心の教育は時間制限のないゲームに似ています。誰かに教えてもらったり辞書で調べたりとある程度マイペースで進めることが可能です。一方、会話は時間制約のあるゲーム。これは慣れと反射神経なくしては成り立ちません。文法の本や辞書を気にせず外国人と会話をした後で「ああ、こう言えば良かったのに何で思いつかなかったのかなあ。しまった、しまった。」と思う経験を繰り返すうちに上手になります。また、相手が言うことを聞いていると「ああ、こういう場合にはこう言うのか、学校では習わなかったけど。」という発見もたくさんするはずです。
 日本語でも年齢、性別、ライフスタイルなどによって言葉の使い方が違うように英語も同じことが言えます。私自身は実際に交流のある同年代の米国人 3人のビジネスパーソンをお手本として表現や言葉のニュアンスを勉強しましたがこれはかなり効果があったと思います。
 新年度に入り、今年こそ英語(ないしは他の外国語)を身に付けたいと思っている方も多いと思います。目的をきちんと持って、自分にあった方法で工夫しながら学ばれることをおすすめします。目的がなければ使う機会もないでしょうから時間とお金の無駄です。言葉は学んだところで使わなければすぐ忘れてしまうからです。「自分にあった方法」を見つけ、工夫するという「気づき」こそ、日本語とは異なる概念を理解するのに役立つのではないでしょうか。
河口容子
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