[358]遠くにありて思うもの

  9月 3日にインドネシアジャワ島バンドンの近くでマグニチュード 7を超す地震がありました。2008年11月 6日号「マナーブームと可愛げ」でふれたニュージーランドに住む華人系インドネシア人のB氏は夫妻そろってバンドンの出身です。バンドンは第 1回のアジアアフリカ会議の開催地と教科書で習いましたが、高地で比較的涼しく、スカルノ元大統領の出身地でもある事からインドネシアでは「カッコ良く」聞こえる所のようです。
 久しぶりにB氏にメールを書き親類やジャカルタにいる彼のビジネスパートナーのE女史(彼女はこのエッセイの0号「アジア人から見たニッポン」の主人公です)は大丈夫かとたずねました。
 「返事が遅れてごめん。皆無事だけど、いつも犠牲になるのは貧しい人ばかり。ジャカルタでは高層ビルの壁に亀裂が入ったらしい。母が今オランダから来ていて今回は 2ケ月ほど滞在する予定なんだ。10月には息子が結婚するんだよ。」事情は聞いたことはありませんが彼は幼い時に両親がオランダに行ってしまい、ずっとバンドンで祖母に育てられたと聞いています。彼の母親は 2年に一度インドネシアに帰って来、彼もオランダを年に 1度くらい訪問していますが、どんな気持ちなのだろうか、複雑な思いがあるのでは、と察します。
 「ご家族の皆さんに心からお祝いを申し上げます。お母様はさぞお喜びでしょうね。お孫さんが結婚されるのですもの。生まれてから家族がふえた経験が一度もない私はうらやましいなあ。」 「きみは僕の家族みたいなもんだよ。都合がつけば結婚式に出てくれない?みんな喜ぶから。」私が被爆者の家族である事や幼いときから家族を失い続けた事を知っている彼ならではの優しい一言です。
 「もうきみだけだよ。初めて会ってからずっと連絡を取り合っているのは。日本関係ではいっぱい友達もいたのに。S氏とJさんはいまだに消息もつかめない。」実はB氏がNo.2を務めるインドネシアの華僑財閥系のメーカーを紹介してくれたのは日本人のS氏でした。JさんはS氏の奥さんで華人系インドネシア人、B氏の元部下です。何とS氏はB氏の勤務していたメーカーに2000万円ほど未払金があるまま姿をくらましたのです。S氏と知り合ったのはB氏より前ですが、ユーモアのセンスのある明るい人でした。インドネシアの事、専門分野などについて気さくに教えてくれたものです。ところがいつ頃か不審な言動が雪崩を打って出て来ました。私は信頼していたS氏を警戒するようになりました。
 「ねえ、S氏とケンカでもしたの?何か変だよ。」人の心を読みとる天才のB氏がそう言った事があります。S氏とJさんは 2ケ月に 1度はインドネシアに行き、B氏のオフィスで一緒に仕事もしていましたし、彼ら 3人で米国へ一緒に出張するくらい親密でした。私は自分の懸念をB氏に話そうかどうか迷いましたが、何一つ確証がなく黙っていることにしました。私の一言で彼らの仲がぎくしゃくするのを恐れたのと、Jさんがいる限り、彼女の故国であり、元の職場に対し詐欺まがいの事をするとは考えられませんでした。
 私の事を「洞察力と想像力のおばけ」と呼んだのはSさんですが、少なくとも初めて出会った頃のS氏は少々お調子者のところもありましたが、善良な人間でした。本当に人間というのは変われば変わる恐ろしい生き物だとつくづく実感したのがこの事件でした。B氏がいつまでも彼らの事も話題にするのも、恨みではなく、彼らを変えた「何か」をつくづく残念な出来事に感じているからに違いありません。
 群れてはしゃぐのが苦手な私にとって友とはB氏のように遠くから静かに生きざまを見守りあうもの、信じあうものです。
河口容子
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[357]輸出戦略のススメ

この夏、香港市場にデビューさせた日本酒の蔵元が業界団体の視察で香港に行かれました。春ごろも上海に行かれたと記憶しますが、帰国後の私とのやり取りに輸出を始める際のヒントがあるように思いました。各地方を代表する日本酒は何千と銘柄があり、そのメーカーは典型的な中小企業です。また最近まで輸出とはまったくご縁のなかった業界です。私も「日本の中小企業の国際化」という視点から大変関心を持っています。
「現地業者に日本酒をどうやって販促したらよいかわからないと聞き正直驚いた」としながらも「定着していないということはまだまだ伸びる余地がある」とあくまで前向きな蔵元です。もともと需要のなかった市場への参入にはまず日本酒に対する知識や良いイメージを持ってもらうためのプロモーション活動が必要であり、それは中小 1社で短期間には行えないもの、結果として進出と撤退の繰り返しとなる可能性が高いと私は言いました。日本人は相手を新興国だからとあなどっている部分がありますが、新興国市場は他の先進国もこぞって狙っており、日本市場で新製品を投入する以上に戦略的思考と準備が必要なのです。
「業界で出て行っても話はまとまらず、 1社で根気強くしないとまとまらないと言われています。でもおっしゃるように結局は進出、撤退の繰り返しだと思います。」と蔵元。上海へは地方公共団体での後押しで行ったそうですが結局何もまとまらなかったそうです。私自身も公的機関のお仕事をさせていただく機会が多いのでよく承知していますが、日本の場合は内外での展示会、商談会、海外への視察のアレンジがほとんどで、イベントの集客数や商談件数が多ければ「事業の成功」と見做します。肝心の商談以降は介入できないという立場を取っており、いきなり「自己責任」ということになります。
そもそも展示会に出展する、あるいは商談会に参加するというのは輸出相手を見つけるひとつの手段にすぎず、一番大切なのは企業にとっての輸出戦略であり、体制整備です。私の日本のクライアントに地方都市の典型的な中小企業の雑貨メーカーがあります。もう 7年くらいのおつきあいになりますが、私が初めて同社の製品を香港へ輸出しました。それまでは年 2回出展している国際見本市に海外バイヤーが来られても名刺をいただくだけで何もフォローしていなかったのです。さっそく、相手の業態やニーズを聞き出す商談シートを和英両方表記で作成し、英語が苦手な社員でも対応できるような工夫をしました。それが今では韓国をはじめとしてアジア地域への輸出が売上の約10%を占めるようになったのです。
英文のホームページも作成しました。日本の大手企業ですら英文ホームページは日本語版をそのまま英訳したものであったり、抜粋だったりするのですが海外のバイヤー、消費者の目線からデザインも内容もまったく違うものを作ってみました。これさえあれば英文カタログを別途作成する必要もありませんし、引合や質問も画面にあるフォーマットを使って整理された形で受け取ることができます。
実はいまだに私が日本語で輸出商談を仕掛けても無反応の中小企業がかなりあります。催促してやっとしぶしぶ返事が来るものの「ありがたいお話ですがどうしていいかわかりません。」と言われたりします。国内市場が縮んでいく中、また国際化の時代に自社の製品を輸出するのは夢物語でも何でもありません。英語が不得手、貿易実務経験がない、これらは代行してくれるサービスがいくらでもあります。まずはどういう条件だったら輸出できるのか、無理のない範囲で日ごろから考えておくことです。チャンスはいつめぐってくるかわからないのですから。
河口容子