雪印事件に見る日本の構造

 ブランドたる最低の条件は何か、どんな商品についても共通していえるのは品質の良さと安心だと思います。食品においては安全性は当然、消費者に対しても配慮が行き届き、商道徳、ましてや法規を逸するなどはもってのほかです。その信頼性ゆえにブランド品はノン・ブランド品より高く売れるわけです。そういう意味で雪印の牛乳事件と今回の一連の牛肉事件は消費者に対する裏切り行為であり、自らのブランドに泥を塗るような事件であったと言えます。私は第一報を聞いておそらく大なり小なり、不正事件は恒常的に行われていたに違いないと想像しましたが、案の定いもづる式に出て来ました。もちろん、雪印に責任はありますが、こんな事件をひきおこす日本の風土を考えてみました。

 大企業ならではの事件。雪印のような大企業が不祥事を起こすと世間に与える影響も大きく、社会的責任を取らざるを得ません。では、有名でない中小企業が起こしたらどうなるのでしょうか。影響力が小さい、たいした金額ではない、仕方がない、マスコミから見ればニュースとしての価値がない、と見過ごされているのではないでしょうか。スーパーで賞味期限や成分表記を細かくチェックして買う消費者を裏でせせら笑っているようなラベルの改ざん。ルールをまじめに守って利益が出ず倒産する企業が出るとすれば、まさに正直者がえじきになる社会になっているとしか言いようがありません。

 日本人のブランド好き。特にバブルの頃はそうでしたが、話を作りあげてはブランド化してしまい、それを妄信して何の変哲もない商品に浮かれたように高いお金を払う日本人がたくさんいます。こういう日本人がたくさんいる限り、ブランドという名前だけを利用してあくどく稼ぐ人たちが出てきます。

 業界団体。たいていはトップ企業が幹事会社として牛耳っていて、大きい団体なら所轄官庁から天下り役人もやってきます。中小企業はそこへ所属することにより、お墨付きをもらって企業として存続させてもらえ、大企業がおいしい部分を取った残りのお皿のふちをなめさせてもらうような立場にいるのではないでしょうか。これぞ護送船団方式、すなわち一業種にたくさんの企業がありすぎる日本ならではの共存の構造です。

 族議員とつるんだ役人により湯水のように使われる税金。英国の狂牛病を「明日はわが身」と思っていなかった農水省のおかげで、消費者は完全に不信感を持ってしまいました。当然生産者は困ります。補助金を出して黙らせればいいという政策を利用したのがこの事件です。補助金を申請しても詳細なチェックがなされないのはふだん見返りをいただいている人々がわざと知らん顔をしているとしか思えません。

 セーフガードの時も思いましたが、業界団体により、そして最近の大型倒産にしても企業により、救ってもらえる場合と見殺しにされる場合の差は何なのでしょうか。それは国民の意志を反映したものなのでしょうか。好き勝手に税金を投入した挙句政府は借金だらけとなっています。日本という国は末節の部分、すなわち一般国民の払う税などについては非常に精密な制度を運営していますが、大金の動く根幹の部分は何度事件がおきても灰色です。日本は倫理を失わなければ生きていけない犯罪国家の道を進んでいるのでしょうか。

2002.02.07

河口容子

歌が教えてくれたこと

私の住んでいる地域では月に1度コンサートが開かれています。演奏者はプロ、アマを問わず地域にゆかりのある人々で、入場料は無料です。せいぜい室内楽の規模までですが、老若男女ふだん着でクラシックに接することができます。さて、1月のコンサートは声楽で、来場者も一緒に10曲ほど歌いました。

 その中で「燈台守」という歌がありました。久しく忘れていた私の好きな歌です。「こおれる月影」という歌詞から始まる歌といえばおわかりになる方も多いかと思います。「思えよ、燈台守る人の尊きやさしき愛のこころ」という後半では涙が出てしまいました。子供の頃、音楽の先生がこの歌を教えてくれる際、燈台守がいかに大変な仕事か、そして皆の気づかないような所で一生懸命働いてくれる人がいるから、安全に快適に暮らせることを、社会はそうやって皆で支えあっているものであることを説明してくれました。

 なぜか私は労働の歌が好きでした。「炭坑節」や「村の鍛冶屋」では炭鉱夫や鍛冶屋という職業を知ることができたし、「灯火近く衣ぬう母は」で始まる「冬の夜」や「かあさんが夜なべして手袋編んでくれた」という「かあさんの歌」はいつ聞いてもしんみりします。昔の歌にはそんな勤労の美しさをたたえた歌が多く、歌に教えられたことも多かった気がします。

 歌は世につれというごとく、燈台も機械で制御されるようになったでしょうし、最近日本最後の炭鉱も閉山し、田舎に行っても鍛冶屋はなく、ましてや夜なべして裁縫や編み物をしてくれる母親も激減したのか、このような歌はいつしか歌われなくなりました。最近の歌といえば抽象的な内容の雰囲気だけのものが主流になってしまいました。「与作」や漁師を歌ったものなど演歌の一部にしか労働の歌はありません。

 昔は、まずはなりたい職業があって、精進した結果として金持ちになったり、有名になったりするものだと教えられたものです。最近の子どもに将来何になりたいかたずねると、「金持ちになりたい」「有名になりたい」と答える子どもがかなりいるそうです。正直と言えばそれまでですが、特にバブル以降、お金さえあれば、有名になれれば、手段を選ばずという風潮は強くなってきたのではないでしょうか。 

 そんな風潮の中で、いわゆる3K(きつい、きたない、危険)な職業には誰も就きたがりません。失業率の高さを叫びつつ、一方では外国人労働者はますます増えていると聞きます。雇用側のコスト削減もあるのでしょうが、第一に日本人の就労者がないのだそうです。外国人研修生を入れて賃金体系が下がりきってしまうと日本人はますますそういう職種には就かなくなります。

 仕事のできる人というのは自分の使命や社会での役割を正しく認識している人のことで、自分の利益や体裁だけを追求している人ではありません。政治家からサラリーマン、公務員にいたるまでタテマエは美しいことを言いながらホンネは自分のことだけしか考えていない人がいかに多いことでしょうか。勤労の美徳や社会、家族への奉仕を歌った昔の歌を時には思い出し、後世に伝えていきたいものです。

2002.01.31

河口容子