他人事

 会社員のころ、もっとも嫌なタイプの上司は「当事者意識のない人」でした。自分のレベルでは解決できない問題が出て来ると当然のことながら上司に相談に行きます。「ああ、そう困ったね。大変だね。」と言われたきりで大変がっかりしたことが何度もありました。私は同意をしてもらいたかったのでも、ましてや同情をしてほしかったのではなく、責任者としての指示やアドバイスがほしかったから相談したのですから。  組織の中には、自分のふだんの業績は棚にあげ、周囲の人々のことを評論家よろしく批判ばかりしている人もいます。また、誰かが犠牲となって支えてくれているのにあぐらをかいて自分だけエンジョイしている人もいます。「自分に被害が被らない限りすべて他人事。」という人たちです。「悪貨が良貨を駆逐する」かのようにこういうマインドの人がふえれば、一生懸命努力する人が報われないどころか組織全体が腐ってしまいます。

 狂牛病に関する農水省の対応もそんな気がしました。イギリスでは10年以上も対策に苦しんで来たというのにおそらく「日本には起こりえない」とたかをくくっていたのでしょう。感染源や原因が特定できないにも拘わらず、「安全」と大臣が霜降り肉を食べて見せてくれても100%納得はできません。これから食べるものは安全だとしても過去食べた分はどうなんでしょう?

気がつけば特に加工食品に含まれている添加物に表記されている物質は何からできているかわからないものがたくさんあります。昔、家で素材から調理をしていた時代は自分の食べているものが何かわからないことはありませんでしたが、利便性と引き換えにどんどん安全性を失っているのかも知れません。

 昨年夏、牛乳の食中毒事件のさなか多くの食品メーカーにユニフォームを納品している会社の方とお話をしたことがあります。私は一消費者の観点でユニフォームの管理はそれぞれのメーカーできちんとなされていると信じていたのですが、不況で企業から従業員個人の管理に移りつつあること、たとえば毎日洗濯したユニフォームを着なければいけないというルールがあっても何日も洗濯しない従業員はいる、そこまで管理はできない、という事実を知ったときには唖然としました。

 また、ある農家では出荷する分は見栄えをよくするために農薬をふんだんに使い、自家用は農薬を使わず栽培しているという話も聞きました。すべて経済性が優先され、安全性は自分に及ばない限り他人事なのです。薬害エイズ問題に至っては被害者が血友病患者に特定されるだけになおさらこの感を強くします。

 米国でおこった同時テロ事件、アフガニスタンへの空爆、すべて他人事ではありません。地下鉄サリン事件は被害者には深い傷を残し、被害にあわなかった人にとってはすでに忘れかかったニュースになっています。平和憲法のもと戦争は仕掛けなくても仕掛けられる可能性はいくらでもあるのです。平和も長く続けばそのありがたさを忘れ、無防備で無関心になる、これは危険な事です。

2001.10.18

河口容子

ほめ上手

 「僕はこんなに一生懸命仕事をしているのに誰もほめてくれないばかりか、何かあれば文句ばかり言ってくる。やはり日本で働くのにはむかないのだろうか。」ある日、東京の米国系企業に転職してきた日系米国人がそうつぶやきました。外資系とはいえ、部下や取引先のほとんどは日本人です。彼は実に配慮の行き届いた非常にソフトな人で誤解されているとも思えません。彼の話したり書いたりする英語は知性とやさしさにあふれ密かにお手本にしていたくらいです。私はさっそく彼にこういう日本語を教えました。「うまくいって当たり前。」几帳面な日本人としてはうまくできて当たり前であり、特にほめることはしない。ちょっとでもミスがあればすかさず言ってくる。これは国民性であり悪意はないのだと。

 かつて香港で国際会議があり英語でプレゼンテーションをしました。そこに集まった8ヶ国のメンバーはてんでに拍手をし「良かった。参考になった。」とほめてくれました。これが日本で日本人どうしのミーティングであれば、何も言われない内容のものであったにもかかわらずです。わざわざ日本から準備をしてやってきたという努力に対するねぎらいの気持ちがほとんどでしょうが、私としては安堵したと同時に自信にもなりました。

他の国のビジネスパーソンにもよく言われます。「何で日本人って文句ばかり言ってくるの?」確かに日本人はほめたり、感謝するということを照れくさいのか、沽券にかかわると思うのかあまりしません。何事もバランスが大切で適切にほめてくれる人の注意には耳を傾けますが、注意ばかりされると「ああ、うるさいな。」となってしまいます。このようなことを上司に言ったら「自分の部下にお世辞なんか言えるか。」と言われたことがあります。お世辞とほめることは違います。自分への見返りを期待して言うのがお世辞で、ほめるのはその人への感謝や期待の顕れだと思います。

 私が入社したときの課長は7000人いる会社の中で一番こわいという評判の人でした。叱られてばかりの毎日でしたが、今思い返せば忙しいにもかかわらず大変教育熱心で、ほめるのも人一倍上手でした。また、何年たってもこの人のように優秀にはなれないと思うほどの能力の持ち主であっただけに、ほめも叱りもいっそう効果があった気がしてなりません。

 時々、海外の取引先から「当社はかかる悪条件にもかかわらず良くやった」と自慢げなメールをもらうことがあります。私も日本人、少々「ほめ」が足らなかったかな、と反省して思い切り感謝することにしています。もちろん、この感謝によってお互いの関係が円滑にいっていることは言うまでもありません。

 私のエッセイも満1周年を迎えました。始めた頃はいつまで続くか不安でもありましたが、いろいろな出来事がおこり、書くテーマには不自由いたしませんでした。書くことは孤独な作業ですが、たくさんの方からおたよりをいただき、それが励みとなって頑張れた部分もあります。特に中高年の方へのインターネットの普及が予想外にすすんでいることは新たな発見でした。また、サラリーマンはもとより、主婦のかた、学生とさまざまな立場からご自分の意見をきちんと書いてくださるということも大きな喜びと楽しみとなっています。この場を借りて御礼申しあげます。

2001.10.11

河口容子