しくみの崩壊

 子どもの頃は西暦2000年の自分など想像もつかなかったし、当時は西暦表示が少なかったせいかあまり意味があるとも思いませんでした。いざなってみると、Y2K問題以外は1999年とさほど違ってはおらず、あらためて自然な時の流れを畏怖している次第です。ただ、20世紀を半分近く経験してきた者としては、第二次大戦後の冷戦構造の崩壊とともに大きな枠組みのタガがはずれ、世界中で国家間競争や民族、宗教の違いによる紛争があちこちでふえてきている気がします。情報手段の進歩により、ひとつのニュースがあっという間に地球をかけめぐり、政治であれ、経済であれ、生活であれ、予想外のダメージを受けるということも少なくありません。

 日本人は細やかで争いごとを嫌う国民であり、「微調整」が得意であったと思います。これはものごとの変化がゆるやかで、右肩あがりの成長をし、外圧の少ない時代には非常に有効的に働いたと思います。ところが、現在のように、変化が激しいわりには、経済成長もほとんどない、外圧だらけ、という世の中になると、微調整ではもう効かず今までの「しくみ」のおかしさが一挙に露呈しているのが現在の諸問題である気がします。

 政治については、国民生活からまったくかけ離れた世界の出来事のようになってしまいました。それでも税金を使って騒々しい選挙をやり、やはり税金が政治家の報酬となっている以上、知らん振りをしているのもどうかと思います。政治に無関心な人がふえればどうしても世襲議員や有名人議員がふえざるを得ず、本当の適材が出てこない気がします。

 大企業にしても経営者のほとんどは社員の昇格組です。会社の偉い人という形でおさまっていますが、その下で働く社員には選ぶ権利はありません。本来、その権利をもつのは株主ですが、株主総会も形式で終わってしまいます。その株主も多くは企業間の持ち合いであったり、ファンドであったり、特に個人投資家は売買益を充てにしているため、どんな会社かも知らずに売り買いを繰り返している人がほとんどでしょう。これでは、経営者、社員、株主とそれぞれが都合の良いことしか考えず、企業として必要な要素がかみあいません。日産のように欧米人の経営者が乗りこんできて解決してもらうしか方法のないところまで来ています。

 雇用問題は、年功序列主義をすてたところに留まり、能力主義の定義が決まっていない気がします。中高年というだけで悪者視されていますが、能力や意欲のある人はいくらでもいます。逆に経験が生きる職種はたくさんあります。新卒で社会経験がなくても潜在能力を秘めた人はたくさんいます。組織というのは人と人が有機的に結びついて初めて効果が2倍3倍となるわけですから、経営者や管理者がさまざまな能力を引き出せないような企業には未来がないと思っています。

 増えつづける犯罪も物質的な貧困ではなく、心の貧困さが原因ということを示しています。昔は「いかに立派な人間になり、社会へ貢献するか」というのが家庭、学校、社会を通じての共通テーマだった気がするのですが、すべてそのしくみがおかしくなっています。なぜなら、本来モノやサービスは人間の欲望、欲求をみたすために生み出されてくるわけですが、それを得るためにはお金が必要であり、いつしかそれをいかに稼ぐかの教育やお金重視の価値観になってしまったからです。 20世紀は戦争の世紀とも言われました。地球規模のより人間的な真の豊かさを求めて、まずはひとりひとりが真剣に考え、行動する。これが新しい世紀を歩み出すわれわれの使命感のような気がしてなりません。

2000.12.24

河口容子

英語ブームだそうです

 英語ブームだそうです。私がものごころついた頃から「これからの世の中は英語くらいできないと。」と言われていましたので、飽きっぽい日本人にとってはこれほど長続きしたブームはないでしょう。「海外出張なさるということは英語はぺらぺらなんでしょうね。」と聞かれることがありますが、こんな質問が私よりはるかに若い世代から出てくることにも驚きをおぼえます。英語は日本人にとって永遠の夢なのでしょうか。

 ある休日、外国人がたどたどしい日本語で英会話スクールの勧誘の電話を自宅にかけてきました。英語は話せるし忙しいので興味がない、と答えると試すがごとく英語でその男性は早口で話し出しました。「あなたはなぜ英語が話せるのですか。」「毎日仕事で使っているからです。英語は私にとって仕事をするための重要なツールです。」「英会話スクールで勉強しましたか。」「行ったことはありませんし、海外に住んでいたこともありません。」「それで話せるのは珍しいですね。どうして話せるようになったのですか。」それからこの男性のぼやきが始まりました。日本人はなぜあれだけ英語を勉強しても話せないのか、なぜ英語を勉強するのに莫大なお金と時間を費やすのかなどなど…

英語ができない理由に「読み書き偏重の教育」「使う機会がない」「言語体系が日本語と著しく違う」などがあげられますが、確かに正しいけれども、根本はその人のスタンスにあると思います。言語というのはコミュニケーションのツールであり、思考法そのものであり、一般の人にとっては学問でも趣味でもないと割り切ることが大切だと思います。

上司が昔言いました。「まず日本語できちんとビジネスができること、自分の考えを持っていること。それで英語ができれば言うことない。逆に英語だけネイティブのように話せても意味がない。」その上司は通訳の資格を持っていますので、なおさら信憑性がある言葉です。私は歴史をはじめ文化的なことや経営学、マーケティングなどに非常に興味があり普段日本語でそういう書物をよく読んでいます。これは的確な英語で話しているかどうかは別として外国人と親交を深めるのに大変役にたっていると思います。要は発音や文法よりもコンテンツが大事ということです。

コミュニケーション力の問題。たとえば、職場で「ほうれんそう」といわれる報告、相談、連絡が上手にできない人は、まずはその勉強が必要だと思います。日本語に比べて英語の方がはるかに合理的で明確なリアクションを求められます。日本語で「ほうれんそう」ができない人が英語を学んでも使えないでしょう。

必要性の問題。幼い頃から外国人のお客様が家に多かったので英語での挨拶は必要でしたし、違和感もありませんでした。中学の時は自分でペンパルを探し、カナダ人の女の子と文通をしていました。大学も外国人の先生や学生、逆に帰国子女で日本語の不得手な学生もたくさんいましたので、とにかくわかりあえる方法を探すということで日本語にこだわっていませんでした。何よりも会社に入ってから、英語漬けの生活で一番上達したと思います。一時期は英語のメールが1日40-50通も入り読むのに追いつけなくて家に持って帰って夜中の2時まで読んで翌日返事を書くという生活をしていたこともあります。せまった必要性がないと語学は上達しないものです。

以上は私にとって英語とは何かです。まだまだ勉強は必要と思いますが、外国の人と意思の疎通ができ自分の世界をひろげられることを楽しんでいます。それと同様に自分が日本語を操れる喜び、こうやってものを書いたり、名作を味わえることも誇りに思い、美しい日本語を大切にしたいと考えています。

2000.12.21

河口容子