オリンピックに魔物はいません

 20世紀最後のオリンピックが幕を閉じました。いくつか思ったことがあります。

 まず、開会式。4年に1度ですと、政治、経済事情の変化を肌で感じることができます。今回の韓国、北朝鮮の合同入場はこの半世紀最大のイベントだったかも知れません。日本人ならよく知っているはずのヨーロッパの国々も旧東欧の崩壊により、国名は聞いていても位置関係がぴんと来ない所がふえてしまいました。アジアが身近になったのに比べ、アフリカや中南米はいまだ遠い国々です。民族衣装で堂々と行進する人々を見てなぜ日本人は和服に誇りを持たないのだろうかとも思いました。和服は古臭く、スポーツに似合わないからですか?その対極にあるのがあの虹色のマントだったのでしょう。

 二つ目は誰もが言うことですが、日本の女性が強かった、ということです。アトランタ大会でもその兆しを感じ、また日系米国人の知人に「日本って女性が強いんですね。」と念を押されたことで一層その感を強くしたのを覚えています。たぶん、日系人の社会には「おしとやかで控えめな日本人女性」のイメージがいまだ強く残っていたのだと思います。スポーツを取りまくさまざまな科学の進歩と女性に対する社会環境が選手生命を長くしていることも原因のひとつでしょう。昔は4年に1度ですらめぐり合わせが悪く涙をのんだ女子選手もいたのに、柔道の田村選手の3回連続出場をはじめ、シンクロのようなハードなスポーツでも2回は当たり前になっています。少女から大人の女性へと選手自身の成長も記録と重ねあわせて感動を与えてくれました。

 三つ目はアマとプロという問題です。アマだけで参加していた時代はメダルを取れた野球がプロが加わった今回は惜しくもメダルを取れませんでした。対戦国のレベルが上がっていることも確かでしょうが、最初からプロの参加についてはもめただけになぜか不協和音を感じざるを得ません。ヒット1本でも空騒ぎするくせに、負けると涙。女子ソフトボールの思わず力が入る試合の積み重ねに比べると試合運びも淡白で後味が悪かったと思います。プロ野球ファンとして興味しんしんだっただけに残念であったと同時に「団体競技」の難しさも考えさせられました。

 四つ目は「オリンピックに魔物が棲んでいる」という有名な言葉です。メダル候補でその力を十二分に見せつけて優勝する選手。逆に思わぬ負けをする選手。噂にも登らなかったのに頑張れてしまう選手。地味だけれどもそれなりに意義ある記録を残せる選手。オリンピックだけではなく、私たちの世界も同じではないですか。魔物なんてどこにも棲んでいません。すべてが努力と才能だけではなく、運や本人の気持ちも味方についての成果だと思います。1回の結果でくよくよすることはありません。アスリートも私たちも。選手生命が延びたと同時に人生も長いのですから。

 21世紀最初のオリンピックは発祥の地アテネからの再出発です。毎回巨大化するオリンピック。もっと開催国に負担のかからない方法はないのでしょうか。私の人生で最も思い出に残るのは東京オリンピックです。青空にファンファーレを吹く金管がきらめき、オリンピック・マーチに紅白のユニフォームをまとった日本選手団の大行進を見て、私は先進国の仲間入りをする日本の息吹を幼いながらも感じ取り、誇りに思いました。こういう思いをこれから伸びていく国々にもさせてあげたい、それには新しい21世紀のオリンピックの姿、お金のかからないオリンピック、自然にやさしいオリンピック、を開催する方法を考えるしかありません。

2000.10.26

河口容子

寒い家族

最近、殺人事件が誰にでもある日常生活の中で発生しています。まず、いじめによる子供の殺人や自殺です。いつも不思議に思うのは、なぜ、親は自分の子供がいじめにあっていることに気づかないのかということです。昔の日本の家庭では隠しても隠しても千里眼のごとく家族に知られてしまうものでした。子供のいる家庭では、けんかしたり笑ったりとにぎやかな生命感にあふれていました。いつからか自立心を育てるために子供に個室を与えることが先進的な家庭で、親が聞きほじくらないことがプライバシーを尊重した見識のある態度だと誤解されてしまっている気がします。

詳細は忘れてしまいましたが、農家の主婦が夜、車で外出し殺された事件がありました。夜、9時に車で出かけるのを夫も息子も「気づいていた」けれどどこへ何をしに行ったかわからないというのです。農家ならば朝は早いだろうし、9時に妻(もしくは母親)がひとりで出かけていくのに「どこに行くの?」とか「何時に帰るの?」「遅いから一緒に行こうか?」などとこの家族はなぜ言わないのでしょう。あるいはそれが日常化していて普通だとしたら殺人以前にそういう家族であることがもはや事件だと思ったのです。いじめと同様、家族の誰かが声をかけていたらこの殺人はおこっていなかったかも知れません。

結婚以来20年、奥様に給与明細を見せたことがない、と自慢している人がいました。ご主人の自分で稼いだお金を自由に使いたい、という気持ちはよくわかると同時に、奥様は20年間、「生活費がもらえればそれでいい。老後の蓄えとか、ローンの支払とか余計なことを考えなくて良いので楽。」と思って満足してきたのだろうか、という心配も胸をよぎります。若い夫婦共働きの家庭では、お互いの収入を知らないケースも増えています。給料日前に何とか相手にお金を出させてやろうと腹をさぐりあったら、意外に相手が高収入でびっくりした、という話も耳にします。夫婦って何なんだろう、役割分担をしている共同生活者なのだろうかと考えさせられました。

アウトプレイスメント会社が人員削減をしたい大手企業と契約をして対象者に次の就職の斡旋や必要な資格取得のアドバイスを行い、面接のノウハウを教えるのが流行っていると何かで読みました。ほとんどの対象者はリストラにあったと家族に言えないため、次の会社が決まるまでに「会社へ通うふりをするための場所」まで確保してくれるのだそうです。困ったときこそ、頼りになるのが「家族」なのではないでしょうか。奥様がパートをして助ける、子供はアルバイトをして学費を出すというのは恥ずかしいことではなく、うるわしい家族の光景なのに。さて、家族にリストラを隠し続け、めでたく就職口が決まったとします。ある日突然、通勤先が変わり、給与も変わっても家族は気がつかないのでしょうか。それとも、気づいていても気づかぬふりをしているのでしょうか。

ハードワーク、職場の人間関係などで精神を病む人も少なからず見てきました。たまに放置すると危ないと思える段階に来ている人もいます。こういう時いくら職場の上司とて「あなたは最近変ですよ。」とは言いにくいものです。本人が自覚できるならまだ軽症です。何とか家族の人が気づいて適切な処置をしてくれないか、と祈るのですが、家では普通なのか無視されているのか、最悪は家族がその原因だったりする可能性もあったりで、職場の同僚はずっと心を痛めることになります。

大人になれば家族にも言えないことがひとつやふたつはあるかも知れませんし、嘘は方便で正直に言わない方が丸くおさまるささいなこともあります。ただ、生命や生活にとって大切な事柄まで言えない雰囲気を作ってしまうのは、何なのでしょうか。日本がだんだん成熟していくにつれモノやサービスがあふれ家族の距離を遠のけてしまったのでしょう。事件がおこると「仲良し家族に見えた」と他人が証言しているのをよく耳にします。外に対しては「仲良し家族」、内では心に寒い風というのでは「家族」という芝居を演じているだけではないでしょうか。

2000.10.19