足元見るな

短期もしくは小口ビジネスのクライアントはないかと求職サイトに初挑戦してみました。私自身、世間は広いつもりでいましたが、こんな職業があるのかと驚くと同時に、あんな低賃金でも働く人がいるのかとまたびっくり。その後、求人情報もよく見るようになったのですが、発見したことがいろいろあります。
まず、システム系の求人が多いことと、職を求める人を悪利用しているのではないか、と怪しまざるを得ない広告もかなりあることです。

以上は誰にでも想像がつくと思います。特に後者についてはサイトの運営者が中味を吟味する方法を取らないと信用を失い、すたれていく可能性があります。その実、求人がコンスタントに出てくるサイトとほとんど更新されないサイトに分かれてきている気がします。

その他、SOHO向けというのが、これまた玉石混交で、私はSOHOというのは個人であれ、法人であれ、一応専門知識なり経験を持って自己責任で営業している人のことだと思っていたのですが、内職サイトと化しつつあります。

たとえば、データ入力1件(確か1件は名前、住所、電話番号くらいの入力量と記憶します。)7円、これなど100件入れても700円です。同じ内容の仕事でもアルバイトとして通勤すれば時給1,000円はくれるでしょう。ひどくないですか?

「正社員契約のできる方」というのも、普通は社員募集(勤務形態は在宅)という募集をかけるべきではないでしょうか。「販売代理店募集」と書いてあっても単なる行商の成功報酬、しかも良識ある人には売れそうもなさそうな商品であったりします。1日数時間働いて2-3千円くらいしかくれないのに専業でやってくれないとダメ、という広告もあり、この就職難にあえぐ人々の足元を見るような企業があまりにも多すぎるのに驚きました。

「ここには50才以上の管理職と新卒には求人はありません。」とまず一言書いてあるサイトもあり、年金がもらえる60才まで夫婦でどうやって生活するだろうか、とか新卒の人が社会経験もさせてもらえないのなら、一生フリーターをやるのだろうか、と日本の未来を案じてしまいます。

昔は求人求職というのは、ある程度層的に秩序があった気がしますが、今は入り乱れての分取り合戦。少し前ならコネで再就職できたような大手企業の元管理職とその奥さん、フリーターの子供が家族そろって同じ仕事を奪い合っている可能性すら想像できます。

一方、企業は増益などという記事が新聞に踊りますが、必ず「人件費削減が寄与して」と書いてあり、中高年社員を肩たたきして、上記のような形で労働力を補っていることがありありとわかります。単なる年功序列は廃止すべきですが、実力主義に変わったとも思えません。「実力」が何であるかの定義さえできていない気がします。労働力の使いすて、企業の目先だけの利便性で「実力主義」という言葉だけがひとり歩きしているという不安すら覚えます。

仕事というのは自己実現、スキルの育成、またそのプロセスの楽しみもあって個人的には苦しさを乗り越えられるし、企業の発展性や活性化を支えているのだと思うのです。これが「ジャパン・アズ・ナンバーワン」といわれた頃の日本の強みであったと思いますが、このままだと誰も彼もがライバルで、仕事はお金を稼ぐ手段にしかならなくなってしまいます。

社会に出てからの全面的な教育は、時間的にも内容的にも人生にとっては大切なもののはずです。家庭教育はなっていない、学校教育の崩壊とあいまって、これではオタクを山のように作るか日本中アウトローだらけになってしまいます。

ほんとうに実力があって、それなりに努力した人が早く社会で認められるというのは良いことだし、少数であっても昔からあったと思います。個性を重視するのも大切なことです。でも、日本では思いつきばったりでやったのが当たっていきなり勝ち組みになったりします。基本的にお金をもうけるか否かで「勝ち組み、負け組み」という判断をするのは嫌いです。お金はひとつの重要なものさしではありますが、それがすべてではありません。社会に貢献する、弱者を保護するというような人間として上等かどうかという部分がすっかり忘れ去られてしまっています。

企業も個人も社会の大切な構成要員です。人格的にすぐれた友人を持つことが誇りであると同様に企業も利益を追求するだけでなく、その企業にかかわる人すべてが誇れる立派な法人であることを願ってやみません。

河口容子

高齢化ニッポン

  最近、長続きした芸能ニュースは何と言ってもミッチーvsサッチーの毒舌バトルでしょう。故小渕首相から中高生まで話題にしたこの事件?に関する私の第一印象は「高齢化社会のバイタリティ」の一言につきます。昔なら70才を目前にした女性の口ゲンカなど「年寄りのくせにみっともない。」と一蹴されてしまうのがオチでした。ところが、老いも若きもワイドショーでこの話題をやっていると、ついつい見てしまうのです。仲良しだったのに何かがきっかけでケンカとなり、親しかっただけに悪口のネタは山のようにある、という誰でも身に覚えのある現象だからかも知れません。

内容はさておき、考えてみればこの年代の女性が社会の第一線で活躍していることがまずすごい、(見る人が好きかどうかは別として)水着姿を披露できるのもすばらしい、訴訟まで持っていくエネルギーもたくましい。中高年の女性にとっては、「恥ずかしいわね。」と言いつつ、私もあんな存在感のあるオバサンになろうとどこかで思っていたことでしょう。中高生も「うちにあんなおばあちゃんがいたらかっこいい。」とコメントを残していました。 離婚、再婚、熱愛発覚など芸能界にはつきもののネタですが、やはりこれも40代、50代が主役になっていることが多く、これまた昔なら「いい年してみっともない。」と言われた世代が若者と同じように愛や恋を語っています。人生50年といわれた時代に比べれば寿命は100年に近づいています。「007は二度死ぬ」という映画がありましたが、人間は2回生きることができる時代になったのです。一生仲良く暮らせるのも幸せなことだし、また熟慮の上、新しい出発ができるのも今を生きる人々の特典といえるのではないでしょうか。

デビ夫人、知人の若者など「あの人、日本人なんですか。ウッソー、インドネシア人だとばかり思っていた。」というほどの歴史的人物ですが、今でも十二分に話題をふりまいてくれる人です。日本には欧米のような社交界がありませんので、芸能界に出てこざるを得ないのかも知れませんが、国際化した日本女性の代表選手です。

叶姉妹にしても昔なら30代の女性がシースルーで表を歩くなんて「商品」にはならなかったでしょう。なぜなら、女性は若くなければ商品価値がなかったからです。女性の友人が「若いことしか取柄のない人はかわいそう。」とぼんやり言ったことがありました。「年を取ったら何もなくなってしまうもの。」と。そうです、誰でも公平に年はとりますから。高齢化社会の到来とともに、「大人」の女性に目が向いてきたことは、大人の女性が内面、外面ともに美しくなるためにも良い影響を与え、ひいては国全体が美しくなると言ったら大袈裟ですか?

いつまでも元気で美しいことは私にとっても明るい未来ですが、一方、事件にまきこまれたり、犯罪者も高齢層にふえてきている気がします。前者については外出する機会がふえ、行動範囲も広がれば確率的には増加するので致し方ないとして、後者は社会問題として今後課題になっていくのではないかと危惧します。年をとればとるほど価値観や考え方、またライフスタイル、家庭環境、健康状態も千差万別です。個々の違いに犯罪の芽が潜んでいる気がしてなりません。多くの人が長生きをエンジョイできるということは、生活につきまとう苦労の部分も長く続くということです。

休日、街を散歩したり、買い物に行くと高齢層の人が着実にふえていることを実感します。昔に比べ、その若々しく明るい姿にほっとする思いですが、「21世紀まで生きていて良かった。」と感謝してもらえる社会づくりが今の中年層や若者にゆだねられている重さをひしひしと感じる今日この頃です。

2000.11.02