[311]危機を克服するベトナムと新しいハノイ

 先日ハノイ市への投資セミナーが開催され、在日ベトナム大使の講演がありました。2008年 7月 3日「ベトナムを襲う経済不安」で触れたように急成長と世界的な原料高により異様なインフレが進み、通貨、株式、不動産の急落とアジア通貨危機の再来の懸念さえありました。
 大使の講演では政府のとった方策として
(1)金融の引き締め(政策金利の引き上げ、預金準備率の引き上げ)
(2)財政支出10%削減(公共事業の縮小、凍結、延期、歳出削減)
(3)生産、輸出の促進(輸出税の引き下げ)
(4)輸入の管理
(5)物価の安定(生活必需品と公共料金の据え置き)
(6)証券市場の安定(違法行為の取り締まり)
(7)福祉の確保(特に弱者への支援)
(8)情報公開による国民の信頼確保
を説明されました。ベトナムのトップの方には詳細かつ率直なお話をされる方が多く、つい親近感を覚え思わずエールを送りたくなります。これらの政策が功を奏し、 IMF、世銀、アジア開銀などは経済危機ではない、政策の効果も出てきていると評価をしています。
 私自身が感じるのは、ベトナムは産油国でありながら製油所がなく(シンガポールで精製)従って石化プラントもない、製鉄所もありません。よって産業の基盤となる素材はすべて輸入に依存せねばなりません。原料高の直撃を受け、貿易赤字も膨らむという構造になっています。それでも 7パーセント台の経済成長を維持し続けた、海外からの投資が増え続けたというのは、周辺諸国に比べ政治の安定性、地政学的な優位性、国民性に優れているからとしか言いようがありません。また、チャイナ・リスクのおかげもあります。発展途上国にインフレはつきものですし、急成長すれば必ず途中で修正局面はあり、中長期的に見れば問題はないと私は考えています。目先の損得だけで動く人はそれだけリスクも大きい、これは当然のことです。
 大使によれば「日本は敗戦で焼け野原になったが50年で世界第 2位の経済大国になった。これは人材育成に力を入れたからである。ベトナムも人材育成に力を入れたい。」とおっしゃいました。在日ベトナム人留学生 3,000人。研修生、実習生として日本で働くベトナム人 1万 7千人。このセミナーでも隣に座ったのが日本で働くベトナム人男性。男性の場合はスーツを着ると日本人となかなか見分けのつかない方が多く、女性の場合はメイクのしかたや服の着方が違うのか案外すぐ見分けがつくのが不思議です。
  8月にはハノイが隣のハテイ省などを併合し新しい大きなハノイ市となりました。その面積は3,346km2で東京都の約 1.6倍、世界で17位の都市に生まれ変わりました。 GDP成長率は何と12%です。2010年の「ハノイ遷都1000年」を前にこじんまりとした政治の街から南のホーチミン市に匹敵する大都市としての体裁を整えようということでしょう。百人一首で有名な奈良時代の唐の留学生である阿倍仲麻呂がハノイに任官していたのは 760-767年だそうでハノイが遷都される前ということになります。古都であり、旧宗主国フランスや共産主義の先生である旧ソ連といったヨーロッパの香りもする小さな都市ハノイが好きでした。また、私の初めての講演はハテイ省で行いましたので心情的にはハノイもハテイもそのままであってほしいという気持ちが強いのですが、こんな個々人のちっぽけな感傷を飲みこみながらどんどん拡大していくのが今のベトナムのようです。

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河口容子
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 海外旅行にサプライズはつきものですが、今回のハノイ出張はサプライズにあふれていました。いくつかご紹介します。
【情】2007年 9月13日号「在日ベトナム人の目」の冒頭に出てくるベトナム商社のN部長とは公式行事のない最終日に一緒に食事をする約束をしていました。ところがセミナー当日 200人ほどの聴講者の中に彼女の顔を見つけたのです。予想していなかっただけに嬉しい驚きでした。しかも部下を 2人連れて来てくれました。彼女のオフィスからセミナー会場まではタクシーでも30分以上かかります。あるいはバイクを連ねて来てくれたのかも知れません。以前、ブルネイでも知人のビジネスウーマンたちに出張しますと連絡をしただけでセミナー会場にはちゃんと座っていてくれたことを思い出しましたが、アセアンの方々の情には本当に胸が熱くなります。
【謎】同行の工業デザインのY先生を文廟(約1000年前のベトナム最古の大学がある孔子廟)へ地図を片手に徒歩でご案内した帰りのことです。入り組んだ住宅街を通りぬけて行ったので帰り道迷ってしまいました。地図を広げてY先生ときょろきょろしていると道端にプラスチック製のスツールを置いて座っていた50代後半くらいの男性が「あっち、あっち」とばかりに指を指して教えてくれるではないですか。どうして私たちの行きたい方向がわかるのか不思議でしたが、「ありがとうございます」と深くお辞儀をすると「いいんだよ、いいんだよ。」と言わんばかりにその男性は手を挙げて応えてくれました。おそらく文廟へ向かう私たちの姿を先に見ていたのかも知れません。昔の日本ではこんな小さな親切とお礼の光景がたくさん見られたような気がします。
【懐】2006年12月 7日号「カワグチ、ゴールキーパー」の後半に出てくるホテルの土産物屋の女性とも再会しました。実は彼女がまだ働いているかと土産物屋を探したのですが違う女性がいました。あれだけ英語の上手な彼女のことですからどこかに転職したのかも知れないと少し寂しい気持ちでした。ところが違う日に何とフロントで彼女を発見したのです。彼女は昇格して、アオザイではなくスーツ姿になり、ヘアスタイルも眼鏡のフレームも昨年とは変わりましたがレンズの奥の慎ましやかで賢そうな瞳はそのままでした。「あなたのことをよく覚えています。私にハンカチをくださったでしょう?お母様とご一緒にお暮らしでしたよね?チェックインされた時は勤務時間帯が違う日だったのでお目にかかれませんでしたが、今回もどうぞごゆっくりお過ごしください。」毎日毎日多くの人と接する彼女にとっても私は懐かしい人であったのかも知れません。
【憤】ハノイから成田への直行便は夜中の12時過ぎの出発です。政府機関の車で空港に着いたのは夜10時頃でした。そこで知らされた「出発が翌朝 8時に変更」という事実に驚愕としました。 8時間遅れ、本当に 8時間経てば飛ぶのかも不安になります。Y先生は翌々日に大阪での講演をひかえておられたので大阪行きに空席がないか交渉しましたが満席。政府機関の職員に電話をして「空港の近くにホテルはないのか」たずねると「英語の通じるようなまともな所ではないので航空会社の指示に従ったほうが良い」と言います。そこへ私がマーケティングの専門家をやらせていただいている国際機関(今回のセミナーの協賛者でもあります)の部長と部長代理がカンボジア出張の帰りということでばったり。思わぬ所で知人と出会うというのは私にとって珍しい出来事ではないのでさほど驚きはしませんでしたが、同じ境遇の仲間が増えました。航空会社からは理由の説明もなく、ハノイのホテルを用意すると言うのですが、空港とハノイ市内は車で40分はかかります。これだけの人数ですからチェックインやチェックアウトにも時間がかかり、ゆっくり休む時間はありません。空港で仮眠を取れる場所はないのかなど航空会社の職員に交渉。早口の英語でまくしたてる私に日本人の男性客たちは遠くから何とかしてほしいとばかりに成り行きを見守っていました。
【奇】結局はハノイ市ホータイ湖畔の超豪華ホテルに私たちは泊まることになりました。昨年のAPECのときブッシュ大統領も泊まったホテルです。二人一部屋とのことでしたが若い女性の旅行客 3人組が自分たちは一緒に泊まるからと私に 1部屋を譲ってくれました。 100平米はあるかと思われるスイートです。寝過ごしてはならぬとシャワーの後、メイクもし直し、服も着替えて、いつでも飛び出せるよう万全の体制での仮眠です。過ぎたるは及ばざるが如しという通り、仮眠に広すぎる部屋、豪華な調度品は何の役にも立ちません。出張ではまずこのホテルに泊まることはあり得ないだけに貴重で奇妙な体験となりました。翌朝 5時半にホテルを出ましたが、11月のハノイは昼間の30度とはうって変わり、朝は寒く、綿入れの薄いジャケットにマフラー、手袋をしてホテルの車寄せ周辺を軽くランニングをしたほどで「冬は底冷えのハノイ」が近づいているのを感じさせられました。
河口容子
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