海外旅行にサプライズはつきものですが、今回のハノイ出張はサプライズにあふれていました。いくつかご紹介します。
【情】2007年 9月13日号「在日ベトナム人の目」の冒頭に出てくるベトナム商社のN部長とは公式行事のない最終日に一緒に食事をする約束をしていました。ところがセミナー当日 200人ほどの聴講者の中に彼女の顔を見つけたのです。予想していなかっただけに嬉しい驚きでした。しかも部下を 2人連れて来てくれました。彼女のオフィスからセミナー会場まではタクシーでも30分以上かかります。あるいはバイクを連ねて来てくれたのかも知れません。以前、ブルネイでも知人のビジネスウーマンたちに出張しますと連絡をしただけでセミナー会場にはちゃんと座っていてくれたことを思い出しましたが、アセアンの方々の情には本当に胸が熱くなります。
【謎】同行の工業デザインのY先生を文廟(約1000年前のベトナム最古の大学がある孔子廟)へ地図を片手に徒歩でご案内した帰りのことです。入り組んだ住宅街を通りぬけて行ったので帰り道迷ってしまいました。地図を広げてY先生ときょろきょろしていると道端にプラスチック製のスツールを置いて座っていた50代後半くらいの男性が「あっち、あっち」とばかりに指を指して教えてくれるではないですか。どうして私たちの行きたい方向がわかるのか不思議でしたが、「ありがとうございます」と深くお辞儀をすると「いいんだよ、いいんだよ。」と言わんばかりにその男性は手を挙げて応えてくれました。おそらく文廟へ向かう私たちの姿を先に見ていたのかも知れません。昔の日本ではこんな小さな親切とお礼の光景がたくさん見られたような気がします。
【懐】2006年12月 7日号「カワグチ、ゴールキーパー」の後半に出てくるホテルの土産物屋の女性とも再会しました。実は彼女がまだ働いているかと土産物屋を探したのですが違う女性がいました。あれだけ英語の上手な彼女のことですからどこかに転職したのかも知れないと少し寂しい気持ちでした。ところが違う日に何とフロントで彼女を発見したのです。彼女は昇格して、アオザイではなくスーツ姿になり、ヘアスタイルも眼鏡のフレームも昨年とは変わりましたがレンズの奥の慎ましやかで賢そうな瞳はそのままでした。「あなたのことをよく覚えています。私にハンカチをくださったでしょう?お母様とご一緒にお暮らしでしたよね?チェックインされた時は勤務時間帯が違う日だったのでお目にかかれませんでしたが、今回もどうぞごゆっくりお過ごしください。」毎日毎日多くの人と接する彼女にとっても私は懐かしい人であったのかも知れません。
【憤】ハノイから成田への直行便は夜中の12時過ぎの出発です。政府機関の車で空港に着いたのは夜10時頃でした。そこで知らされた「出発が翌朝 8時に変更」という事実に驚愕としました。 8時間遅れ、本当に 8時間経てば飛ぶのかも不安になります。Y先生は翌々日に大阪での講演をひかえておられたので大阪行きに空席がないか交渉しましたが満席。政府機関の職員に電話をして「空港の近くにホテルはないのか」たずねると「英語の通じるようなまともな所ではないので航空会社の指示に従ったほうが良い」と言います。そこへ私がマーケティングの専門家をやらせていただいている国際機関(今回のセミナーの協賛者でもあります)の部長と部長代理がカンボジア出張の帰りということでばったり。思わぬ所で知人と出会うというのは私にとって珍しい出来事ではないのでさほど驚きはしませんでしたが、同じ境遇の仲間が増えました。航空会社からは理由の説明もなく、ハノイのホテルを用意すると言うのですが、空港とハノイ市内は車で40分はかかります。これだけの人数ですからチェックインやチェックアウトにも時間がかかり、ゆっくり休む時間はありません。空港で仮眠を取れる場所はないのかなど航空会社の職員に交渉。早口の英語でまくしたてる私に日本人の男性客たちは遠くから何とかしてほしいとばかりに成り行きを見守っていました。
【奇】結局はハノイ市ホータイ湖畔の超豪華ホテルに私たちは泊まることになりました。昨年のAPECのときブッシュ大統領も泊まったホテルです。二人一部屋とのことでしたが若い女性の旅行客 3人組が自分たちは一緒に泊まるからと私に 1部屋を譲ってくれました。 100平米はあるかと思われるスイートです。寝過ごしてはならぬとシャワーの後、メイクもし直し、服も着替えて、いつでも飛び出せるよう万全の体制での仮眠です。過ぎたるは及ばざるが如しという通り、仮眠に広すぎる部屋、豪華な調度品は何の役にも立ちません。出張ではまずこのホテルに泊まることはあり得ないだけに貴重で奇妙な体験となりました。翌朝 5時半にホテルを出ましたが、11月のハノイは昼間の30度とはうって変わり、朝は寒く、綿入れの薄いジャケットにマフラー、手袋をしてホテルの車寄せ周辺を軽くランニングをしたほどで「冬は底冷えのハノイ」が近づいているのを感じさせられました。
河口容子
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会社員の頃、取引先の方から「あなたは実務を上手に体系づけ、理論化するのが得意だから将来大学で教える準備をしてはどうか」と言われたことがあります。もちろんお世辞ですが、この方は MBAでマーケティングが専門です。自分は考えもしなかっただけに違う分野の方の視点は面白いと感じました。私自身は日々悩みながらも国際ビジネスの現場にいることが好きで、起業後も実務を行なうコンサルタントであり、研究者や評論家ではないというスタンスを守ってきました。それが「実際にビジネスを行なっている人からアドバイスをしてほしい」というアセアン諸国のニーズに偶然にも合致したのです。そして大学どころではなく2002年から海外で教えるという仕事も増えました。
グローバル化に伴い、日本から海外への投資が進んでいます。もちろん途上国に対して経済力の底上げには投資が一番早く効果が上がるのですが、ビジネスである以上はいろいろな理由で撤退もあり得ます。また、利益が出たら出たで、その国民を利用しているだの、搾取しているだのという反感も現地で出てきます。そういう意味で「教育」なら即効はありませんが、国際交流も含めた貢献が可能です。こういうお仕事は商社マンを続けていたらあり得なかったでしょうし、思わぬところで見つけた天職とまで思っています。
ベトナムの聴講者はとても熱心です。セミナーの受付は朝 8時からの開始ですが、セミナーの始まる 9時には会場である農業・農村開発省傘下の展示場の講堂が 200人ほどの人で埋め尽くされます。中にはアオザイにパールのネックレスという正装のビジネスウーマン、少数民族の民族衣装をまとった人たちが見かけられ、いかにきちんとした気持ちでこのセミナーを受け止めてくれているかがうかがわれます。日本のように途中で居眠りをしたり、私語をしたりする姿は見かけられません。この真摯な態度に応えようと私も前年よりさらに良いものをと入念な準備をしますので、ベトナムの聴講者に私が教えるというよりも彼らが私を育ててくれているようなものです。
先週号で政府機関の運転手さんが英語を話すようになったと書きましたが、一昨年は通訳を介しての取材ばかりだったのに対し、最近は英語での直接取材がふえています。英会話スクールの成果ではなく、スクールに高額の授業料を騙し取られた事がニュースになっている日本とは大違いです。
セミナーの翌日は買い付けミッションの方々と現地企業との商談会でしたが、若い女性が私に話しかけてきました。彼女の装いからするとシンガポール人にしか見えず、話す英語もシンガポール訛りです。「なぜシンガポール人がここにいるのかしら」と思っていると、彼女は父親の仕事の関係でシンガポールに住んでいるベトナム人で、兄がベトナムに残って手工芸品の輸出をしているため手伝いに来たと言うのです。本当に彼女はシンガポールのキャリアウーマンかお金持ちのお嬢さんにしか見えず、社会主義国家ベトナムにおいても国際化した富裕層も出現している事をひしひしと感じさせられました。
商談会の後、ハノイ特別市の南西にあるハテイ省の竹細工の工場をミッションメンバーとともに訪問しました。社長は一昨年のハテイでのセミナーの事を覚えていてくれました。講師として本当にうれしい瞬間です。「あなたから品質が大切と習いましたよ。」という彼の工場は風水に基いた立地だそうですが、国際標準化機構による品質マネジメントの規格ISO9001:2000を取得しています。農村の手工芸職人だった彼も今や年商1000万ドル(10億円超)の成功者です。ハノイ市の最低賃金は月55ドル(6000円ほど)ですから、いかに莫大な金額かおわかりのことと思います。
成田空港から東京ビックサイトへの行き方がわからずタクシー代 5万円を払ったというエピソードに「日本人でもそんな人はいませんよ。」と誰かが言うと「日本人は行き方がわかっているからいいのです。ベトナム人にはわかりません。だからタクシーを使ったのです。」皆にミネラルウォーターをすすめてから「このボトルはシールしてありますから、コップに移さず、このまま飲むのが一番安全です。」とどこまでも大らかで優しいお人柄の社長です。最後に誰かが「この笑顔、ソフトバンクの孫さんに似てる。こういう顔が金持ちになるんやな。」と笑わせてくれました。
河口容子
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