昨年の各地の成人式での出席者の「暴動」に恐れをなして、各地方公共団体は知恵をいろいろ絞ったようですが、なぜそんなに20歳になっただけの子供たちに周囲の大人が戦々恐々としなければならないのか、おかしなニュースに思えてなりませんでした。
成人式が始まったのは1948年だそうです。ちなみに1947年の平均寿命が男性50歳台、女性53歳台です。当時の人生の長さから言えば20歳はかなりの「大人」でなければならなかった訳です。長命となった現在では30歳前半くらいのところに位置します。式場で暴れている若者の感覚からすれば20歳で大人にできあがってしまうと大人としての人生があまりにも長すぎて辛いのかも知れません。
短大も含めた大学進学率が 5割を越した現在、半数以上はまだ学生で大人として自立したという意識が持てないでしょう。選挙権の20歳は単なる線引きです。運転免許の18歳との2歳差はどういう根拠があってそうなるのでしょうか。お酒、タバコの解禁についても、20歳未満で堂々と飲酒、喫煙している子供は山のようにいます。
確かに始まった当時の成人式には意味があったと思います。複興の担い手である若人が集まることは、戦争で傷ついた人々の希望の星であったことでしょう。また、イベントのない時代、ふだん会えない同級生や友人に会え、少しぜいたくをするといった楽しみもあったろうと推測します。
女性につきものの晴れ着は1960年あたりから流行し始めたと聞きます。当時百貨店が広めたとのことですが、豊かさの象徴として大衆にすんなり受け入れられたようです。それから、晴れ着を作ってやるのが楽しみな母親や高卒で働き出して成人式の着物のために貯金をする女性など、式が見栄を競う場と化し、それに群がる美容室、着付けサービス、レンタル着物など一大ビジネス・チャンスともなり、成人式本来の意味は薄れてしまっているような気がします。
テレビであるコメンテーターが、「せっかく50年以上続いたのだから何とか維持してほしい。」というようなことを言っていました。 500年以上続いた日本の伝統を後世に伝えるような行事ならともかく、税金で若者に暴れたり、晴れ着のファッションショーとなる会場を提供し続けることにそんなに意義があるのでしょうか。単なる形式主義としか思えません。
成熟した社会では多様な人間がいます。スポーツ、芸術、芸能などのジャンルでは大人顔負けの仕事をし、精神的にもしっかりした未成年がいる一方、何歳になっても親から自立できない人もたくさんいます。
ちなみに私は成人式はしませんでした。奨学金とアルバイトでやっと大学に行け、節約した残りのお金を家族のために使っていましたのでそんな「余計なこと」をする余裕はありませんでした。今でもさまざまな理由で成人式を祝えない人は少なからずいるはずです。行政というのはむしろそういう人々に配慮する機関であるべきというのが私の持論です。
2002.01.25
河口容子