[313]マナーブームと可愛げ

 香港向けの新しい案件のコラボを小中学校の同級生 F氏にお願いしました。初めて出会ってから半世紀近くの時を超えて一緒に仕事ができるとは不思議なめぐり合わせと思われるかも知れませんが、私の同級生たちは社会人になっても一緒に仕事をするケースが結構あります。 F氏が最近好きな言葉は某全国紙で評論家が書いていた「可愛げにまさる長所はない」というものです。そして可愛げは天性のもので、乏しい人は「律儀」を目指せば良い、律儀なら努力で身につけられる、との事です。
 いつの間にか「可愛げがある人」「律儀な人」という表現は死語に近いような日本になってしまいました。「可愛げ」とはルックスやしぐさがかわいいというのではなく性格や心がけを指して言うもので、通常同等か目下を評して言うのではないかと思います。確かにルックスもマナーも能力も完璧であっても可愛げがない人なら魅力はないし、多少のミスや欠点があろうとも可愛げがある人は見捨てられない気がします。
 そんな矢先にニュージーランドに住む中国系インドネシア人の B氏から久しぶりにメールを受け取りました。(同氏については過去のエッセイで何度かふれております。下の[関連記事]をご覧ください。)東京の株価が急落した報道を受け、「たくさん株式を保有していないといいけれど。」と心配してくれたようです。 B氏と知り合ったのは1995年で私はまだ会社員、彼はジャカルタにある取引先の役員でした。能力、ルックス、マナーと三拍子そろっているものの、やはり可愛げが圧倒的にまさっています。
 彼は複雑な家庭環境に育ったので「気を見るに敏」です。要は相手の気持ちを察する能力が人並みはずれてすぐれているのです。ジャカルタで私が落ち込んでいたり、ちょっと疲れていたりすると、気分転換ができるような素敵なレストランやショッピングへ黙って連れて行ってくれます。お互いに仕事で忙しくて会えなくても何時に起きたか、何時に寝たか、何を食べたか、どこへ行ったか、元気かとうるさいほどにホテルに電話をくれます。「私は子どもじゃないから大丈夫」と冗談で怒った事もあります。そんなに気を使われては倒れてしまうのではないかと心配したからです。それでも「永遠の友達って約束したでしょう?僕は友達をずっと大切にする主義なんだ。」とあくまで律儀さを譲りません。
 そして感謝の心を忘れないのも彼の美徳です。何年前の事だろうとよく覚えていて「あの時はありがとう」と誰かれなく言っています。そしてどんなに遠く離れていてもいつも気遣ってくれている、そんな暖かさに包まれた気持ちにさせてくれる、これが彼の「可愛げ」の原点だと思います。
 香港のビジネス・パートナーの兄弟、投資家と弁護士という理論家であり社会的地位も高い彼らが、私に時には弱音を吐いたり、八当たりしたりをするのも心を許しているからであり、忙しいにもかかわらず身辺で起きたことなどをメールで教えてくれるのも「可愛げ」があると言えましょう。
 晋江に一緒に行った香港のクライアントの D氏は滞在中ありとあらゆる知人に私のことを「日本の親友」として紹介してまわってくれました。彼は夜中までよく会議をしていたので睡眠不足で疲労困憊にもかかわらずです。 D氏ほど即メールに返事をくれる人を見たことがありません。少しでも返事が遅れると「申し訳ない。」とか「すぐ返事を出せなかった自分が情けなくなる。」というような一言が必ず書いてあります。常に相手を思いやる D氏もなかなか「可愛げのある」人と感じています。
 マナー本やマナーのコラムがブームですが、確かにマナーをわきまえている事は大人として必要であるものの、いくら形式を整えたところで中味がなければ仕方がない、ぜひマナー本でも「可愛いげ」や「律儀さ」について教えてほしいと思う今日この頃です。
河口容子
【関連記事】
[257]続 華僑のDNA
[142]華僑のDNA
[129]人間関係
[105]変わりゆく華人社会

[257]続 華僑のDNA

2003年12月18日号「日本人の知らない日本人歴史 (2)」に出てくる在日中国人 3世の知人と久しぶりに連絡を取り合いました。彼は元取引先の担当者でしたが、今は兵庫県で実家の中華料理店を継いでいます。初めて会ったのは数年前ですが、その際、別に黙っていてもいいのに彼のほうから中国人で中国籍であることを切り出しました。私は「日本人は閉鎖的だからお祖父様やお父様はさぞ苦労されたことでしょう。ごめんなさいね。」と謝った記憶があります。「祖父や父は大変だったかも知れませんが、おかげで僕は別に何の差別もなく育ちましたし、日本の大学へも行けたし、福建にいたままではこんな良い生活はできなかったと思います。」「今は中国は急成長しているから福建にいても大金持ちになったんじゃないの?」「そんなことありません。残っている親戚を見ればわかりますから。」と笑いました。
彼は両親も話せなかった中国語を日本で習い、奥さんは上海の出身です。新婚当時は上場企業の食品メーカーの寮に住んでいたそうです。そのメーカーに勤務していた女性の管理職の知人がいますが、学閥のなかなか厳しいところで、ましてや国籍の違う夫婦、奥さんは当時日本語もあまり話せなかったので苦労したのではないかと聞くと「そういう中だったからこそ、嫁さんは日本語や日本の習慣が身についたと思います。その点は人と上手にやっていけるタイプだから。」彼は日本で生まれ育っているせいもあり、日本人にしか見えませんが、内面は実にしっかりとしていて、前向き、感謝の心を常に忘れません。現在お店のリニューアルを計画中でそれに伴い店名も変えるようですが、英文名は私も一緒に考えました。
一方、2004年10月 1日号「変わり行く華人社会」と2005年 6月30日号「華僑の DNA」に出てくるインドネシアからニュージーランドに移住した華人の友人にも変化が起きつつあります。息子が大学を卒業し働き始めたがオーストラリアに移住するというのです。幼いときに両親と弟妹がオランダに行ってしまい、インドネシアでひとり祖母に育てられた彼は友人を大切にし、奥さんと子ども二人はまるで宝物のようでした。それをいくら近いとはいえ他国へ惜しげもなく出すというのはまさに華僑の DNAとしか思えません。
彼のニュージーランド移住物語も紆余曲折があります。まず家を2軒買い、1軒は家賃収入源とし、もう1軒も半分貸しています。これで新天地での生活費には困りません。次にピザ・レストランを始めたものの店舗物件をめぐるトラブルに巻き込まれ挫折。ジャカルタに残したビジネスは何とか順調に行っているようで「いざとなったら故郷に帰れるよう足がかりを残すように」という私のアドバイスはどこかで生きたのかも知れません。ニュージーランドで始めた貿易の仕事は「もがき、あがいている最中」とのことで気持ちの余裕のなさがメールの行間ににじんでいる気がしました。別に事業に失敗したわけでもないのにジャカルタでのセレブな暮らしをかなぐり捨て、50歳を目前にしてゼロから出発しなおそうとした本当の理由は何だったのか。繊細な心遣いと優しい面差しの彼からはそんなたくましさがどこに潜んでいるのか想像もつきません。彼はインドネシア華僑の 5代か6代目ですが、華僑の血が騒いだのでしょうか。
河口容子