[750]極刑を考える

2013年5月18日

極刑とは究極の刑、つまり現在では死刑=極刑と考えられています。

長崎の園児殺人事件の被害者の親御さんは、犯人とされる中学生の少年に極刑以外には納得できないというコメントを発表しています。(日経2003年9月25日付)

その気持ちは親としてわかりますが、極刑にしたところでお子様は帰ってこないし、要は二度とこういうことが起こらないよう社会の仕組みを是正していくことだと思います。少年法を改正し罰を重くしても、それは恐怖政治と同じことで抜本的な解決にはなりません。犯罪に対する法律は「犯罪が起こらなくする仕組みを作る」というのが基本だからです。

死刑は人類特有のものです。他の生物では死刑なんてものは存在しません。社会をなす動物世界では私刑はあります。しかし、それは自分の力の顕示のため行なうのであって相手の存在自体を抹殺するものではないのです。

本来「刑」とは犯罪人の更正を目的とするものです。その中で死刑は更正を求めず存在そのものを抹殺するという点で異端といえます。死刑求刑の論旨の中には必ず「被害者の心情を察すると」というのがあります。要するに死刑の本質は「仇討ち」なのです。

どういうわけか日本は死刑廃止には消極的です。旧来から存在する「仇討ち」の民族だからでしょうか。一方ヨーロッパでは死刑は名実ともに廃止されているのが現状。アメリカは逆に死刑制度を強化しています。死刑制度が文化の一端とするならば、やはりヨーロッパは一歩進んでいるといえましょう。

制度と社会が欲するのならば死刑はやむをえないと思います。しかし基本的に極刑とは「死刑」ではなく「永久隔離してそこで更正させる、あるいは新たな人生をやり直させる」という方向に進めないものかと思ってしまいます。そのほうが「社会に生きる人間らしい」制度だし、自然だと思います。極悪人は人類の汚点です。汚点をまっすぐに見つめることでわが身正すことができると言えないでしょうか?

そしてもう一つ。怖いのは冤罪です。無実の罪を着せられて死刑になった人がいないとは言えません。もし今まで一人でも無実の罪で死刑になった人がいるなら、これは全人類が死刑に処せられてもいい犯罪といえます。「被害者の心情」をはかるならまさにそういうことになってしまいます。「人間が人間を裁けるのか?」永遠に続く問いだと思います。

ところで、新内閣の法務大臣野沢太三さんは死刑執行のサインをするのでしょうか?過去死刑に反対の法務大臣はサインを拒否したとも伝えられますが、判決を無視してサインをしないということもまた大きな問題を含んでいるといえます。