[23]士・農・工・商(1)

2019年3月21日

第23回
■士・農・工・商(1)
江戸時代からの風習として「士農工商」と云う区別は付けられましたが、この順番で身分が付けられたのではないような気がします。「農」が二番目になっていますが、食料を生産するのは一番大事でしたからでしょう。でも一番虐げられたのは農民ではなかったかと思います。この区分の中に厳然と「貧富の差」がありました。
《士族》
壬申戸籍(じんしんこせき)、明治五年に最初に出来た戸籍で、戸主の頭に『士族』と書かれた家族です。一口に士族と云っても色々ありますが、要するに江戸時代の二本差しのことです。この中で明治維新前まではその地域の武将・・殿様です。またこれを含めて宮中で位を持った人達が「貴族」と云われた「特権階級」です。
これらの階層は昔武力を持って土地を強奪し、自分たちの勝手な法律を作って、一般国民に差別を造り、年貢・税金を取り上げ、栄耀栄華の生活をしてきた階層です。此の士族でも階層はありましたが、要するに『殿様』或いは「公家」だった人達で、「公爵」「侯爵」「伯爵」「子爵」「男爵」と爵位を持ち、これは世襲で代々昭和20年まで特権が与えられました。
つまり簡単に言えば一番国民から略奪し、生殺与奪の権を持った「人殺し」でしょう? 私の家は代々武家の家系だなんて自慢する人もいますが、「人殺しの家系」だなんて云ったらどんな顔をするでしょうね?
此のうち「公爵」は「公家」の出身らしく、明治以後は元老院に席をおいて、天皇に直接お話が出来る人だったようです。子供の頃昭和通りに「西園寺公望公爵」の国葬の行列を見たことがありました。
「侯爵」は昔は殿様だつたようです。「伯爵」その殿様の重臣だったようで「子爵」位の低い公家だったようです。「男爵」は日清・日露の戦争で、司令官などを務めて勲功があった人に授けられたようですが、詳しいことは分かりません。ですが此の階級は終戦まで続いたので昭和の初期には勿論ありました。
子供の時小石川に移り住んで、明化小学校に通うようになったのですが、学校まで歩いて15分位でしたが、その途中に「徳川邸」があり、勿論中には入れませんが、何しろ鬱蒼と木が茂っている広大なお屋敷がありました。
余談ですが、其の屋敷の門はいつも開いていて、そこに大男の門番が居ました。半分裸のような姿で、いつも竹箒で掃除していました。子供達は此の大男に「六バカ」とあだ名を付け、学校の帰り道で大きな声で「六バカ」と叫ぶんです。すると其の大男は箒を振りかざして真っ赤な顔をして子供達を追いかけるのです。子供達は一目散に逃げるんです。・・そんなひやかしも子供達の遊びです。・・私もやりましたけどね・・・。
話を戻しますが、此の小学校の裏手にもう一人の貴族のお屋敷がありました。それは「酒井忠正伯爵」のお屋敷です。ご存じとは思いますが、「酒井家」は徳川幕府の重鎮の家柄で当主は大の相撲好きで、お庭に立派な土俵まであり、子供相撲の時は良く参加したものです。昭和十三年の頃、立浪三羽烏と云われた、横綱双葉山、大関羽黒山、関脇名寄岩などが時折きており子供達と相撲を取って? 遊んでくれました。後に当主の忠正氏は横綱審議会の会長を務められた方です。(相撲に関しては又稿を改めて書くつもりです。)
続く

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