[79]ゲーリックとベーブルース
第79回
■ゲーリックとベーブルース
ここまでは長くプロ野球に関わって来た「阪急」の名前は出て来ましたが、「巨人」の名は出て来ませんでしたが、昭和6年に読売新聞社の正力松太郎社長が、主催して日米野球で大リーグオールスターが来日して、日米野球の激突が始まったのです。日本側は東京六大学現役選手を揃えて17試合をしましたが、大リーグには一勝も出来なかったそうです。
こうしてプロ野球が過熱気味になった来たので、昭和7年には文部省から野球統制令が出て、学生野球と職業野球との対戦は禁止されました。学生の本分である勉学が疎かになる・・と云う理由だそうです。
昭和9年には二回目の日米野球が開催されました。此の試合には二人の選手が活躍し、うち一人は「澤村栄治」17才です。現在でも「澤村賞」で知られる伝説の投手です。この時期は野球統制令が出ていた時ですから、当時中学生であった澤村は出場権がなかったので、在学していた京都商業を中退し、そして全日本チームに入って来ました。
その澤村は驚異的な活躍をしました。投手として160キロ近い速球と、大きく縦に曲がる「懸河のドロップ」と云うカーブを繰り、米国打線をキリキリ舞にさせたと云います。
しかし此の試合は米国のゲーリックのソロホームランだけの失点だけでしたが、全日本は1点も取れずに敗退し、結局澤村は負け投手になってしまいました。だけどゲーリックやベーブルースから畏敬の念を込めて「スクールボーイ」と言わしめたそうです。
しかし凄い17才の少年だったですね!・・そして次々と記録を塗り替えて行った澤村でしたが、カーブを投げるときの口元の歪みを見抜かれてしまったそうです。それに気付いた澤村は大きなバックスイングと左足を高々と上げることで豪速球を編み出すことに成功して、不滅の伝説の投手・澤村が誕生しました。
昭和11年9月26日の対タイガース戦では史上初のノーヒットノーランを達成しました。しかし翌年日支事変が起こり、澤村も召集されて歩兵弟第33連隊に入隊しました。その後除隊して昭和15年7月には名古屋戦で三度目のノーヒットノーランを記録しましたが、戦争の激化で再び戦地に赴き、昭和19年12月2日に台湾沖。澤村はフィリピンに向かっていたところ敵襲を受けて戦死したそうです。時に27才の若さであったと云います。澤村はプロ野球の黎明期に僅か10年足らずの野球人生であったのでした。
此の大平洋戦争で戦死した選手は次の通りですが、その他の人は分かりません。 石丸進一・・名古屋・・昭和18年10月12日に対大和戦で戦前最後のノーヒットノーランを記録したが、昭和20年5月に特攻隊出撃で戦死しました。
景浦 將・・タイガース・・昭和13年9月7日に14試合連続して得点した。しかし昭和20年5月20日戦死したと云います。
あの頃こんな球場があった
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