[103]知らなかった事件簿(4)世田谷の弟殺し
第103回
■知らなかった事件簿(4)世田谷の弟殺し
昭和5年4月24日、札幌市北一条西に住む谷口富士郎22才が2年前に弟の省二郎18才を殺害したとして札幌署の刑事に逮捕されたのが此の事件の始まりです。
富士郎は弟の省二郎と新三郎と勉学のため昭和2年に上京して世田谷の経堂で三人で共同生活をしていました。
富士郎は昭和2年に札幌二中を落第していて、上京後は彫刻家を志して朝倉文夫の助手を務めていましたが、東京美術学校塑像科を中学卒業証書を偽造したことが発覚して退学させられています。省二郎は日大二中を中退、その後城西学院も酒の上で退学。新三郎は南米移民の力行会に通学していたと云います。
此の三兄弟の父は札幌では有名な眼科医でまた資産家でもありました。此の三兄弟の他には2女1男がいましたが、此の兄弟の母親は死去し、後妻を迎えていたと云います。
昭和3年11月11日に富士郎は弟の省二郎の後頭部を彫刻用の玄翁で殴って殺害して、死体を家の入り口の空き地に埋めて周囲には省二郎は満州に出奔したと偽っていたと云います。三男の新三郎は兄富士郎の凶行を苦にして発狂して松沢病院に入院したと云います。
松沢病院とは、戦前は有名な「気狂い病院」とされ、鉄格子のはまった病棟が並び、一度入ったら二度と出られないと云われた病院だったと云われて居ます。お前は松沢行きだぞ・・なんて脅されたような冗談を言われる位恐れられた所でした。
富士郎逮捕から間もなく省二郎の死体は発見されました。事件の発覚は差出人不明の投書と、新三郎の友人の訴えによるものでした。そして警視庁では松沢病院で新三郎を取り調べた結果、新三郎が力行会から帰宅した時に、兄富士郎が省二郎を殺害した現場にちょうど遭遇したのでした。省二郎の殺害現場を見てしまった新三郎はその死体を埋める手伝いをさせられる破目になってしまったようです。
そして富士郎は新三郎が話してしまう事を恐れて、狂人に仕立てて松沢病院に入院させたようです。富士郎は自らの犯行を隠すために弟を狂人に仕立てたのでしたが、弟の新三郎は自分も殺されるのではないかと云うのを恐れて自ら発狂したように振る舞ったと云います。
此の富士郎と云う男は、前に新三郎に父の財産のことで継母を殴らせたりしたことを理由に父と一緒に少年審判所に送り、精神鑑定をさせて神経衰弱と判定を貰って松沢病院に入院させたそうです。
又ある時、富士郎が省二郎と喧嘩したとき、省二郎が「大きな事を言うな、貴様はそこの婆を殺しやがったくせに」と云ったと新三郎が証言。「そこの婆」とは兄弟三人が住んでいた経堂の近くに住んでいた資産家の婆さんが殺害された事を言いますが、其の殺害の手口が省二郎殺害と全く同じだったと云い、警察ではそれも富士郎の犯行だったと云いますが証拠がなかったため迷宮入りとなっていたもの。
事件は富士郎の知人であった府下松沢村上北沢の水谷はる66才を昭和3年6月13日に殺害したと云うものです。此の家には、省二郎は面識はありませんでしたが、自分の弟と紹介したので、安心して招き入れたと云いますが、最初から二人で用意していた針金で絞殺して2円80銭入りの財布を奪い、室内も物色しましたが金品を発見することが出来ずそのまま逃走したと云います。
富士郎は「自分は芸術の天才だ」などと繰り返しいい、昭和9年5月には狂人と認定されて松沢病院に入れられましたが、自分の犯行時には神経衰弱であったと主張して裁判を要求、結局昭和10年6月地裁で無期懲役となりました。
この富士郎が住んでいた6畳間は、次に入った人々に不幸な事件が起こったりしたので、その後は心霊スポットとして有名になったそうです。