[109]忠犬ハチ公物語(1)
第109回
■忠犬ハチ公物語(1)
ハチ公は日本犬の大型種で秋田犬(あきたいぬ)です。ハチ公は大正12年11月10日に、秋田県大館市大子内の斉藤義一宅で生まれました。兄弟は四頭だったそうです。父犬は大子内号母犬は胡麻号と云われて居ます。
大正12年頃東京帝国大学農学部の上野英三郎先生が純粋の秋田犬が欲しいと云う要望に依って、大館の世間瀬千代松に依頼し前記のハチ公を大正13年1月14日に米俵に入れられ、汽車で大館駅を出発し20時間後に上野駅に到着し、上野のもとに届けられました。生後2ヶ月の幼犬でした。上野宅には他にもジョンとエスと云う2頭の犬がいましたが、ポインター種のジョンはハチの面倒は良く見たそうです。
ハチと云う名前は先生が三重県の出身で地元には「ハチ」と云う名が付いた犬が多かったからだと云われて居ます。「公」と付けたのは先生の門下生が尊称として付けたそうで、それ以来「ハチ公」と云う様になったそうです。先生は50才を過ぎた頃から病気がちになって、奥さんはいつも先生の身辺に付き添って世話をされていましたが、子供がいないのでハチ公を可愛がること我が子の様であったと云われています。
そのハチ公は座敷で飼っていたので、先生が茶の間で話をするときには何時も邪魔をしたり、時には畳の上で脱糞をしたりして奥さんやお手伝いさんが閉口することもあったようです。ところが大正14年5月21日に上野先生は大学の講義中に脳溢血で急逝されました。ハチ公は先生との生活は僅か17ヶ月で永遠に終わってしまったのでした。いくら待っても帰って来ない主人のことを思ってか、ハチ公は三日間何も食べなかったと云います。
5月25日に上野先生の通夜が行われましたが、主人が死んだことが分からないハチ公は、ジョンとエスを連れて渋谷駅に迎えに行ったそうです。その後ハチ公は上野夫人の八重の親戚である日本橋伝馬町の呉服屋に預けられましたが、客に飛びついてしまうため、今度は浅草の高橋千吉宅に預けられました。そこでもハチ公のことで近所の住人との間で対立が起きてしまったため、ハチ公は再び上野宅に戻って来ました。しかしここでも近所の畑で走り回り、作物をダメにしていまうので、富ヶ谷に住んでいる上野宅に出入りの植木職人、小林菊三郎のもとに行くことになりました。昭和2年秋のことでハチ公は4才になっていました。
渋谷駅にほど近い小林宅に移って以降、上野先生が帰宅していた時間にハチ公が渋谷駅でよく見かけられるようになりました。昭和7年ハチ公9才の時、上野先生を迎えに来るハチ公のことを知っていた日本犬保存会(昭和3年設立)の斉藤弘吉が、渋谷駅で邪険に扱われているハチ公を哀れんで、ハチ公のことを東京朝日新聞に寄稿しました。これが「いとしや老犬物語」として新聞に「今は亡き主人の帰りを待ちかねる7年間、東横電車の渋谷駅、朝夕の真っ黒な乗降客の間に混じって人待ち顔の老犬がある」と載り、そして有名になったハチ公は渋谷駅の人々から可愛がられるようになりました。
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