[136]松平晃(まつだいらあきら)-2-
第136回
■松平晃(まつだいらあきら)-2-
<前回の続き>
昭和9年に正式にコロムビアと専属契約を結んで「松平 晃」となったようです。そして同年1月に「希望の首途」2月に「急げ幌馬車」、11月に「曠野を行く」などがヒットしています。
この中で「急げ幌馬車」は私も好きな歌でSP番のレコードを母に買わせた覚えがあります。此の歌は旧満州を舞台として、放浪の旅人の姿や恋愛模様を描いたものらしいですが、勿論子供の私に意味が分かる筈がありませんね。ですけど此の軽快なメロデーは好きでしたね。
『急げ幌馬車』昭和9年
♪ 日暮れ悲しや 荒野は遙か
急げ幌馬車 鈴の音だより
どうせ気まぐれ さすらいものよ
山はたそがれ 旅の空 ♪
此の歌は#3まであります。こうして「松平 晃」は昭和9年から11年にかけて、藤山一郎や東海林太郎と並んで、流行歌の一時代を築きました。又「曠野を行く」でデュエットを組んだ「豆千代」と「夕日は落ちて」や松竹映画の主題歌「人妻椿」でもヒットを出していました。
『人妻椿』昭和11年
♪ 愛しの妻よ 泣くじゃない
たとえ分かれて住めばとて
仰ぐみ空に 照る月は
西も東も同じこと ♪
此の歌は#3までありますが、私が特に思い入れのある松竹映画の「人妻椿」を巣鴨松竹映画劇場で、母に連れられて見ているのです。
映画の筋書きは確たる記憶にはありませんが、主演女優の「川崎弘子」の面影ははっきりと覚えています。共演は「上原 謙」と「佐分利 信」でしたが、内容は恋愛ものだと思いますが、何か暴力団みたいな親父にいじめられているようなものだったような気がします。その憎たらしい親父は「河村黎吉」と云う俳優でした。あの顔つきと台詞回しのうまさは格別でした。
覚えてお出での方もおられるとは思いますが、戦後の昭和27年に「森繁久弥」と共演で「三等重役」と云う映画がありましたね。その時の初代社長が此の「河村黎吉」だったのです。そして同年に「続 三等重役」が出ましたが、そのときはもう「河村黎吉」は実際に死去していましたのて゜「森繁久弥」が社長になって、其の机の後ろの壁に、初代社長の遺影が飾られていましたね。
「河村黎吉」は明治30年生まれで昭和27年に55歳で亡くなるまでに16歳で初舞台を踏んで生涯に出演本数が276本と云う凄さです。
つい話が横道に外れてしまいましたが、「人妻椿」のヒロインだった「川崎弘子」は尺八の名人と云われた「福田蘭道」が夫ですが、その子の「石橋エータロー」があのクレイジーキャッツのメンバーだったのですね。
この事を此処に挿入した訳は、このクレイジーキャッツの主力メンバーだった「植木 等」が此の拙文を書いていた昨日、平成19年3月27日午前10時41分に他界してしまったからなんです。ですから急遽この「松平 晃」の次に書こうと思っています。
話を前に戻して「松平 晃」は彼は二枚目俳優のような美男子だったようで、日活映画「花嫁日記」や新興キネマ「初恋日記」や松竹映画「純情二重奏」、東宝映画「歌えば天国」などに映画出演しています。しかし、そう云う容姿の人ですから、私生活では一途な性格も災いして異性問題では常にトラブルが絶えなかったようです。
たとえば日活の看板女優であった「市川春代」に思いを寄せたと云いますが、周囲の反対に嫌気がさして自殺未遂まで起こしたそうです。また新興キネマの伏見信子とは結婚はしたものの、性格不一致などの理由で1年足らずで離婚してしまったそうです。こうした歌手生活は昭和13年以降は凋落が著しく、各社から様々な歌手が現れて戦国時代の様相になって行きました。
主な発売されたものを次に掲げておきます。「片瀬波」昭和7年、「夕日は落ちて」昭和10年、「人妻椿」昭和11年、「青春日記」昭和12年、「泪のタンゴ」昭和12年、「上海航路」昭和13年・・・此処で昭和11年発表の「花言葉の唄」の#1だけ記しておきます。
『花言葉の唄』昭和11年
♪ 可愛い蕾よ きれいな夢よ
乙女ごころに よく似た花よ
咲けよ咲け咲け 朝露夜露
咲いたらあげましょ あの人に ♪
彼は中学時代からマジックが好きで、其の実力は素人離れしていたと云います。そんな彼でしたが、戦中はもっぱら慰問活動に重点を置くようになり、慰問団を結成してシンガポールや中國大陸など海外にいたためレコードは昭和18年に吹き込んだ「走れ日の丸銀輪部隊」が最後になったそうです。戦後にも何枚か吹き込んだそうですが売れなかったようです。
昭和31年には、東中野に「松平晃歌謡学院」を創立して後進の育成に当たりました。しかし、細々と活動は続けていましたが、過労が祟って歌謡学院の帰路に倒れ、昭和36年3月8日に心筋梗塞による心不全で49年の生涯を終えました。
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[135]松平晃