[145]昭和の歌「大江戸出世小唄」他

2019年3月21日

第145回
昭和の歌「大江戸出世小唄」他
  『大江戸出世小唄』唄・高田浩吉・・昭和10年

♪ 土手の柳は 風まかせ
好きなあの子は 口まかせ
ええしょんがいな ああしょんがいな ♪

此の歌は#5までありますが、「高田浩吉」は松竹映画の俳優で、ずいぶん沢山の映画を巣鴨松竹映画劇場で見ました。でも全部の映画で歌っていた訳ではありませんが、此の当時は歌える俳優として人気があったようです。子供の筆者等は強く逞しいタイプの役者ではありませんでしたから、それほど興味はありませんでしたが、母の年代の女性には人気があったようです。何しろ美男でしたからね。
「高田浩吉」は明治44年11月7日に兵庫県園田村に生まれました。本名は梶浦武一と云います。大正15年10月に在学していた大阪商業学校を中退し、松竹下加茂撮影所に研究生として採用されました。そして昭和5年に「照る日くもる日」でデビューし、第一回の主演作は昭和5年の「仇討破れ袴」でした。その後は松竹の「坂東好太郎」と二本柱となって活躍しました。
また、歌うスターの第一号として此の「大江戸出世小唄」の他に「淺太郎赤城の唄」「伊豆の佐太郎」などがあります。お子さんに女優の「高田美和」「高田瞳」がおりますが、本人は平成10年5月19日に肺炎のため、京都府の病院で亡くなりました。享年86歳でした。
  『軍国子守唄』唄・塩 まさる・・昭和11年

  ♪ 坊や泣かずに ねんねしな
    父さん強い 兵隊さん
    その子がなんで 泣きましょう
    泣きはしませぬ
    遠い満州の お月さま    ♪

此の歌は#3まであります。
此の歌手には、忘れられない唄がこの後に出ていますので次に記して置きます。
  『九段の母』唄・塩 まさる・・昭和14年

  ♪ 上野駅から 九段まで
    かってしらない じれったさ
    杖をたよりに 一日がかり
    せがれきたぞや 合いにきた  ♪

此の歌は#4まであり、支那事変後に最愛の息子を祖国に捧げた悲しい母の心を切々と歌い、昭和14年4月に浪曲調の語りかけの詞と股旅調が身近に感じたのか、空前の大ヒットになったと云います。
此の「塩 まさる」と云う歌手は、明治41年の生まれですが、経歴ははっきりとは分かりませんが、昭和12年9月にキングレコードからデビューしました。早稲田大学の商科を出て、千葉鉄道局に務めていたと云う異色の出身だそうです。この頃の大学での給料は公定価格70円、中学卒業だったら35円の頃でしたが、レコード会社の専属になったら350円になったそうです。凄いですね。
そのデビュー曲が「軍国子守唄」でした。そして昭和13年に出した「母子船頭唄」もヒットし、続いて此の「九段の母」が大ヒットしたのです。この頃は銃後の守り・とか云って内地に残された家族は、何も云わずに、お父さん、夫、恋人、息子などを一日千秋の思いで帰りを待っていたんでしようね。それが遺骨で帰ってきたときの悲しい思いが、このような唄に聞かされて泣いた人も多かったのでしようね。
誰だって残された家族ばかりではなく、戦地に赴いた男子だって、戦争は嫌だったでしょう。しかし戦争をしなければならないような列国の圧力でこうなったと思いますが、國のために死んでいった家族を靖国神社に祀って、遺族は勿論、國の総理大臣が参拝して、冥福を祈るのは当たり前だと思いますね。それを他国からとやかく言われる筋合いではないと思いますね。
話がそれてしまいましたが、平成9年に日本レコード大賞功労賞を受賞した彼は、94歳まで現役としてステージに立ちましたが、平成15年95歳でこの世を去りました。そして長野県浪合村の堯翁院にあるお墓に眠っていると云われます。