[125]歌は世につれ、世は歌につれ

2019年3月21日

第125回
■歌は世につれ、世は歌につれ
芸能でも歌ばかりではありませんが、だんだんと戦時色が強くなって来ましたが、昭和に入ってからの「流行歌」に少し話しを移して行きましょう。
「歌」と云うものは常に其の時代を表しているものです。昭和に入ってから此の昭和12年13年頃に活躍した有名な歌手のことを書きながら、その歌詞を偲んで行きたいと思います。本当は曲まで書けると良いのですがねぇ・・・・
現代の「歌」と違う所は、昔は「歌詞」が出来て、それに作曲家が「曲」を付けた・・と云うことです。ですから昔の「歌」は「歌詞」が大事なんです。ですから時代はいくら変わっても
その「歌詞」を何時までも覚えていて、当時を思い出すことが出来るのです。
今、私の手元にSPレコードが何枚か、又40年ほど前に「森繁久弥」が「日本の唱歌」を吹き込んだLPレコードがありますが、何年経っても胸に響いて来るし、また当時が思い出されますね。
《佐藤千夜子》
では、先ず日本の歌謡界にデビューした流行歌手第一号の「佐藤千夜子(さとうちやこ)」と云う歌手のエピソードを簡単に書いて置きます。
此の「佐藤千夜子」の歌はヒットの連続で、当時の有名な作詞家の「西条八十」の作詞料が30円の時に此の「佐藤千夜子」の印税が何と2000円だなんて云われています。デビューは昭和3年で歌は「波浮の港」でした。

♪ 磯の鵜の鳥ゃ 日暮れにゃかえる
  波浮の港にゃ 夕やけ小やけ
  あすの日和は
  ヤレホンニサなぎるやら♪

此の歌は#4まであります。
此の「佐藤千夜子」は明治30年山形県天童市の生まれで、元々はソプラノ歌手でしたが、この年の翌年の昭和4年の「東京行進曲」が大ヒット、そして「紅屋の娘」「君恋し」「愛して頂戴」など全部ヒットし、昭和6年にはあの有名な「古賀政男」作詞作曲の「影を慕いて」・・

♪ まぼろしの 影を慕いて雨に日に
  月にやるせぬ わが想い
  つつめば燃ゆる 胸の火に
  身は焦がれつつ しのび泣く♪

此の歌は#3までありますね。
「東京行進曲」・・

♪ 昔恋しい 銀座の柳
  仇な年増を 誰が知ろ
  ジャズで踊って リキュルで更けて
  あけりゃダンサーの 涙雨♪

此の歌は#4までありました。
「佐藤千夜子」はこれらの印税、数万円を持ってイタリアに渡ってソプラノ歌手としての勉強をしていましたが、大成せずにかえって沢山の借金を抱え帰国しました。
しかし此の日本に帰ったときはもう彼女の時代は過ぎていました。そして何歳か年下の女性が世話をしていたらしいのですが、不遇で身寄りもなく、晩年は乳ガンに冒され、長屋の一間に住んでいたそうですが、体が腐って異臭を放すほど酷かったと云います。
独身のまま昭和43年に施療患者として孤独な死を遂げたと云います。享年70歳でした。死後は付き添いの女性が生まれ故郷の山形県の天童市に持って行ったそうですが、本人がカトリックの信者であったために、教会に納めたらしいですが、墓地がありませんので、無縁者として共同の墓地に遺骨はばらまかれたと云います。ですから彼女の墓はないそうです。
レコード歌手として第一号の栄誉を得た彼女でしたが、全く孤独な最後を遂げました。イタリアに行かなければ違った人生もあったのではないかと想いますね。
今、私の手元に昭和3年デビュー当時の和服姿の写真がありますが、当時は女性歌手には美人はいないと(失礼ながら)云われていた時代ですが、どうして、どうして彼女は中々の美人てしたよ。それに当時のSP盤のレコードをCDに入れたものもありますが、彼女の声はソプラノですね。
これからも「歌手」の列伝は続きます。