小さな親切

 ジャカルタ郊外の韓国系の工場を訪問した時のことです。出迎えて下さった韓国人の取締役が「重そうですね。持ちましょうか。」とぱんぱんにふくらんだ私のリュック型バッグを見て言いました。日本で企業の偉い人にそんな事を言われたことがないので、わが耳を疑いながら「ありがとうございます。大丈夫ですから。」と思わず断ってしまいました。「聞いてもいいですか?日本人ってどうしてそういう時に断るんですか?他人に盗られると思うのですか?」最後の質問には笑ってしまいましたが、韓国では電車やバスで座席に座っている人が立っている人の荷物を持ってあげるのはふつうの行為なのだそうです。

 確かに今でも友人とならそういう事はします。子供の頃、祖母や母はそうしていた気がします。その頃、電車ではお年寄りに席を譲るように、体の不自由な人が安全に歩けるように手伝ってあげる、など「小さな親切」を心がけるよう学校でも家庭でも教わったものです。「小さな親切大きなお世話」という冗談めかした言葉が物語るように、席を譲られると自分はそんな年寄りではないと怒り出す人、小さな子供がいたずらをして注意されると謝ることを教えるどころか相手に口答えをする母親など、素直になれない大人たちがいつの間にかふえ、他人に干渉されないことをプライバシーの尊重だと信じこむ風潮が強くなった気がします。  先日、母と電車に乗って外出しました。母は最近ひざが痛いこともあって空席をきょろきょろと探します。誰も譲ってはくれません。母が見ると一斉に寝たふりをするシートもあります。しばらくして小学生の男の子を連れたお母さんが席を譲ってくれました。座ったままの男の子は「お母さん、座る?」と気にしていましたが、母親はそのまま立ち続けます。何駅が進むうちに高齢の婦人が乗って来ました。「どうぞ。」少年は豆紳士よろしくその婦人に席を譲りました。母親を見習って少年には親切をする勇気がわいたのでしょう。婦人に感謝され、母子でうれしそうな笑顔を交わしたのが印象的でした。

 私は消化器系の病気で2ヶ月入院したことがあります。当時はこれといった治療法がなく、社会復帰は無理だとか、無理をしたら死ぬかも知れないと医者に言われました。短い命ならお世話になった皆さんに少しでも恩返しをしようと病院の中でも配膳の手伝いなどをすすんでしていました。ある日、近くの病室の高齢の女性が見事なサラダを作って持って来てくれました。もう数ヶ月の命と言われている患者さんです。「大丈夫ですか?そんなことをされて。」「いいのよ、うちは八百屋だから野菜はいくらでもあるの。それに私はもう食べられないし。いつも親切にしてくれてありがとう。私だけにでなく皆に親切にしてくれているお礼よ。」このように人間というのは生きている限り親切心というのは本能的に持っているような気がします。

 数年前に亡くなりましたが、近所に知的障害のある女性が住んでいました。家事の手伝いをして、自分の歩ける範囲以外遠い所へ行ったことのない一生でしたが、とても心のきれいな誰にでも親切な人でした。彼女のお葬式には近所の大人から子供まで総出で参列しました。現代の価値感である知識、情報、お金と対極の所にいた彼女ですが、何十年と積み上げてきた親切は周囲の人々の魂を知らず知らず揺り動かしていたのです。

2001.11.01

河口容子