[037]帰ってしまった出張者

 2週にわたり、アテンドについて書かせていただきましたが、残念に思った経験があります。会社員の頃、米国法人のある支店の女子社員が出張して来ることになりました。この支店は米国法人の稼ぎ頭でもあり、日本の本社を見たり、直接日本の文化やビジネス環境を知ることをかねた、いわば研修旅行やごほうび旅行といった色合いの強い出張を現地雇員にさせていました。
 その都市からの直行便は夕方成田に到着しますので、東京のホテルにチェック・インするのは19時半前後となります。女性の場合はいつも私がホテルに行って、様子見がてら軽い夕食を一緒に取ることにしていました。やって来るのは米国の地方都市に住む普通の担当者ですから、日本に来るなんて思ってもみなかったような人たちです。米国のオフィスにいる日本人は皆英語が話せますが、日本はそうはいきません。また、彼らから見れば同じような顔をした日本人がどっと繰り出す風景に到着したとたんかなりのカルチャー・ショックを受けることがよくありました。
  Aさんの場合は、米国にある取引先のトップが大阪のメーカーで商談を行うためそれに事務方として同席するというのが表向きの出張理由です。ところがこの米国取引先トップと彼女は分不相応ということもあり、米国からの同行は許されず、初めての日本で東京から大阪まで移動せねばならないというプレッシャーのためか、一緒におそばを食べても1本ずつ箸でつまみあげ、5本も食べるともうお腹がいっぱい、疲れを訴えるという状況でした。
 彼女の場合は、初来日とはいえ同じ会社の人間ですから、お客様のように手取り足取りのサービスは誰もしません。これは逆に私が出張した場合も同様です。彼女をホテルの部屋まで送り届けると上司(米国人の女性)からもらったというガイドブックを何冊も持っていたので、翌日は土曜日であり、具合が悪ければホテルで休むか、気分転換に散歩や買い物をすることをすすめ、近場のわかりやすいところをメモに書いて渡しました。もちろん、私の自宅電話番号も緊急連絡用に書いておきました。そして日曜は東京を案内してあげると待ち合わせの約束をしました。


 日曜は快晴、一生来ることもないかも知れない東京を少しでも楽しませてあげようとホテルのロビーに急いだところ、そこにはスーツケースを持った彼女が立っていたのです。「私は今日のフライトで帰ることにしました。」体調が悪いというのです。ホテルの支配人によれば、夜医者を呼んだものの、どこも病気ではない。次は米国の夫や上司に夜中じゅう電話をかけまくったというのです。「男性の方は商談がうまくいかない、などの理由で体調不良を訴える場合があるのですが、女性の方はショッピングや観光などで上手に気晴らしをされるせいか初めてのケースです。」
 金曜の夜来日し、土曜はひとりで騒ぎまくり、日曜に帰国という出張放棄のパターンに社内関係者は唖然。彼女を解雇しろと非難する声や出張者の人選に関する上司の責任問題、研修がてらの出張制度の見直し、と騒動が続きました。ご本人はしばらく自宅で休養、その後人事異動となりました。
 彼女の上司は私と仲の良い友人ですが、ふたりともわかったのは自分たちとは違うタイプの人間が世の中にいるということです。彼女の上司は妊娠 8ケ月でも日本に研修に来ましたし、夫と娘ふたりを帯同してオランダに駐在もしています。私も初の海外出張は 3週間で米国と英国の7都市をまわるものでしたが、途中でインフルエンザにかかり高熱と夜も眠れないほどの咳に苦しみながら北半球を一周しました。仕事への情熱、責任感のみならず与えられた機会に感謝する心、それらが不安を打ち消すということが Aさんには理解できていなかったと思います。
河口容子