[212]お酌から見えるもの

 最近、印象に残ったコラムがあります。「お酌をするのは絶対嫌だ」という女性エッセイストが、とある講演を行い、その後宴会に呼ばれたそうです。参加者はほとんど男性の経営者で講演会を企画した女性の経営者がお酌をしてまわってくれるのを楽しみに講演に参加しており、自分もあんな風にできればもっと後援者がついたのかも知れないと思ったという内容です。
 私自身はプライベートでは一滴もお酒を飲みません。親しい人たちの中には私が下戸だと思っている人もいるくらいです。仕事上のおつきあいでは、いくらでも何時まででも飲め、二日酔いも遅刻もしませんでした。これは一種の芸当に近く、もともと商社マンというのは接待業も仕事のうちですので、プロとしての誇りがそうさせていたのでしょう。男性ばかりの宴席では接待をする側がお酌をするし、また上位職位者ばかりの席では世話係として部下の男性がお酌や食事の世話をするのが通例の社会では、男性がするお酌をどうして女性もやってはいけないのか、またそれは「もてなし」としてのお酌であり、媚や嬌態の類ではないと私は思っています。
 ただ、周囲にしつこく「女性だから」と強要をされる場合やお酒や食事の世話に忙殺され自分が休む暇もないのはさすがに勘弁してほしいと思います。私は幸い男性の部下に恵まれ、取引先の接待で体裁上、私がお酌をしなければならないと彼らは陰で申し訳ないと謝ってくれました。内輪では、男性の部下がお酌をしてくれますし、焼肉を焼いてくれ、鍋も作ってくれました。これらが暗黙の了解のうちに自然に行なわれていたので、お酌ということには抵抗がなかったのだと思います。
 おもしろいことがありました。銀座の小さなクラブで、隣のテーブルの男性客が私の事をお店の人と勘違いして「水割をちょうだい」と呼ぶのです。上品な紳士たちでしたので、黙って水割を作ってあげました。ママがびっくりして飛んできて私に謝り、「こちらはお客様ですので」と説明してくれました。男性客は丁寧に謝って下さり、私たちにスコッチのボトルを1本差し入れて下さいました。ママも帰りに「お詫びとお礼」にと高価なお土産をそっと渡してくれました。ささいな事件ですが、彼らの対応に器量を感じました。
 欧米社会ではお酌の心配をする必要がありませんが、現在どっぷりつかっている中国や東南アジアはどうなのか、というと、アジア一戒律の厳しいイスラム教のブルネイでは外国人といえども外ではお酒は飲めません。当然、お酌も必要ありませんし、酔っ払いにからまれることもありません。同じイスラム教の多いインドネシアではお酒は飲めるものの、他の宗教のインドネシア人もあまり飲酒の習慣はないようです。
 先日の韓国企業との宴会では先方の役員さんたちにお酌をしていただいたし、私からもお返しをし、乾杯を何度も重ねながら和気あいあいと商談も進行しました。相手が外国人の場合、いつもどうしようかと一瞬ためらいます。その国のビジネスウーマンはお酌をしなくても、日本人ならするかも知れないという期待を感じるからです。その国の慣習に従うか、日本人を強調するか、どちらが効果的か雰囲気を読む瞬間です。
 ところが日本にはめったにいないタイプのビジネスマンがアジアの他の国にはいます。エスコートの達人です。彼らは食事となると、美しい手さばきで料理を取り分けてくれ、飲み物を絶やさないようにしてくれ、すかさず「おいしい?」「気に入った?」などと素敵なスマイルで聞き、楽しい会話でひたすら女性を喜ばせることに徹してくれます。それでいて自分もしっかり食べて飲んでいるわけですから、これも芸当に近いような気がします。こういう人たちには絶対お酌も料理を取り分けてあげることも禁物です。彼らは自分の完璧なまでのマナーに酔い、エスコートをする自分自身を楽しんでいるかのようです。私はさりげなく感謝を表わしつつ堂々としていてあげなければいけません。内心はどうかと言うと「こそばったい」というか「父親に食事の世話をしてもらう子ども」になったような気分はどうしてもぬぐえません。
河口容子