日本とフィリピンのFTA(自由貿易協定 の中で、日本がフィリピンから看護師や介護士を受け入れることを決めました。この話は、少子・高齢化社会、日本の医療システム、外国人労働者の受け入れ、フィリピンの貧困問題、とさまざまな問題を考えさせてくれます。
まずは長野県南相木村診療所長の色平先生のお書きになった文の一部をご本人の了承を得て引用させていただきます。
「近い将来、フィリピンから看護師や介護士が日本にやってきます。そのとき日本の医療・福祉の現場は彼女ら、彼らをうまく受け入れてケアの質を高められるでしょうか。言葉や習慣、歴史、宗教などの違い……いろんな面で、それぞれのケアの現場は試されることになるでしょう。
最も怖れるのは、彼女たちに「仕事を奪われた」として日本人が差別的な態度をとることです。外国人労働者をたくさん受け入れている国では、そのような反発が生じているのも事実です。しかし、考えてみてください。なぜ、彼女たちは専門的な知識に加えて日本語まで身につけて、わざわざ海を渡ってくるのか。その根っこには何があるのか。それを知れば、個人を差別することがいかにおろかで情けないかがわかるはずです。
じつは、フィリピン国内の医療をとりまく環境は、ずっと貧しいまま放置されているのです。たとえばフィリピンの乳児死亡率は日本の約十倍。結核患者は60万人もいます。看護師1人が担当する患者は 100人と、とんでもなく危険な状況です。医師を含めて医療関係者は低賃金とひどい労働を強いられています。そのキツさは日本とは比べものになりません。患者を救いたくても国にお金がなくて助けられない。早く稼ぐには外国に出るしかない。この現実が、彼女たちを海外へと向かわせるのです。
医師のなかには米国で看護師資格をとってまで働く人が現れました。貧しさが社会全体をおおっています。フィリピン政府は、労働者を海外に送り出してお金を稼いでもらうことを国の方針とし、貧しさを乗り越えようとしています。海外労働者から母国への送金額はGNP(国内総生産)の 1割ちかくを占めています。
看護師に限ってみると、02年度に約 1万 3千人が海外で就職しました。その受け入れ先はサウジアラビアが最も多く(50%) 、次いで英国(26%)と なっています。現在、総数で約30万人のフィリピン人看護師が海外で働いているそうです。」(後略)
私が懸念することがいくつかあります。「研修生」として受け入れ、タダ同然の報酬で働かせるようなケースが出てこないか、あるいは正式に雇用された人であってもフィリピン人だからと低賃金で使い、他の日本人医療従事者の賃まで下がることにり、結果日本人の医療従事者が減ってしまうということです。
次に、日本人どうしでも介護の現場でセクハラ問題が出てきています。日本で働くフィリピン人女性というとホステスやショービジネス関係者のイメージが強く、勘違いをする人や途上国から来た女性ということでセクハラ問題もふえるのではと懸念します。
そして、言葉の問題さえなければ外国人にお世話をしてもらうのはしがらみがなくて気楽という面もあります。昔は親の介護は子どもがするものと決まっていました、そして次に介護に他人や施設の助けを借りるのが恥な時期があり、今は平気で他人頼みです。子どもが少ないから親の介護ができないのか、もう介護をしてもらえないから子どもを産まないのかわかりませんが、ますます老親を顧みない子どもがふえることは間違いないでしょう。
タイには日本人が治療をするためのロングステイというサービスもあります。日本の病院は混んでいるので、欧米に留学した医師がおり、設備の整った良い病院で冬も暖かいところでゆっくり療養されてはどうですか、というものです。もちろんほとんどの現地の人たちはそんな高額な施設を利用することはありません。ベトナムも同様のプロジェクトを始めようとしています。自国民のために看護ができる環境にないから日本人にやって来て看護をしてお金を稼ぐ、あるいは日本人向けの立派な療養施設を作り、自国民には無用の長物、という哀しさ、悔しさを日本人も思いやる必要があるような気がします。
河口容子
[145]ベトナムへの想い
ベトナム戦争は1960年代初頭に始まり、1975年 4月30日に終わりました。米国はケネディ、ジョンソン、ニクソンと3代の大統領が1500億ドルの戦費を投入し、ピーク時には54万人を派兵しました。近代戦の雄である米国が小柄なベトナム人のゲリラ戦に負けた米国戦史上の汚点でもあり、米兵の戦死者 5万 8千人、南北ベトナムでは 200万人の犠牲者を出したといわれます。考えてみれば私が小学生の頃からちょうど大学4年までこの東西冷戦の象徴でもある戦争は続き、米国はもとより日本でも反戦運動に揺れましたので、いわば「間接的戦中世代」と言えるかも知れません。戦場のカメラマン沢田教一さんが「安全への逃避」という写真でピュリッツアー賞を受賞したのは1965年、東京オリンピックの翌年で、「日本人にも国際的に評価される仕事をする人がいる」ことを子どもながら感動したのを覚えています。沢田さんはその5年後、カンボジア戦線で亡くなりますが、当時は今のように日本から観光客が押し寄せるなどということは想像すらできませんでした。
大学を卒業し、総合商社に入社しましたが、課長は元サイゴン(現ホーチミン)事務所長、全社で一番こわい課長と言われていました。サイゴンが陥落したおかげで私は全社一こわい課長の下で働くめぐり合わせとなったのです。
今年の9月に約1週間ベトナムに出張する予定です。首都ハノイを含め3都市で講演や会社訪問がありますのでそろそろ準備が始まっています。そのタイミングを計ったかのように私の香港パートナーからメールが入り、パートナーがベトナムのホーチミンに投資している企業の責任者の女性二人が来日するので1日くらい会ってもらえないか、というものでした。
今年の梅雨は不順な気候で、蒸し暑いのには彼女たちは慣れているとしても急に小寒い日があるので長袖の軽い上着を持ってくるようにと直接メールを入れた私は約束の日にホテルのロビーに行きました。ロビーにはたくさんの人であふれていましたが私にはすぐ彼女たちを探しあてました。典型的なベトナムのビジネス・ウーマンだったからです。副社長をしている年上の女性のほうはきっちりとした夏用の長袖のスーツにシャネルの大きなバッグ、貿易担当部長の女性は白地に同色で刺繍をした長袖のブラウスに日本のブランドものの靴をはいていました。現地ではエリートだからでもありますが、私が子どもの頃から植えつけられたあの哀しい戦争の面影はどこにもありません。
打ち合わせを行い、展示会に案内した後、銀座の百貨店内のフランス料理店で軽い昼食をとっている最中に彼女たちは急に言い出しました。「この辺にお花やお庭を見れるところはありませんか?」「えっ?植物園のこと?」私は新宿御苑に彼女たちを連れて行くことにしました。この日は朝霧雨が降り、緑がたっぷりと水分を含み、人出も少なめでした。彼女たちはデジカメで記念写真を撮り始めました。私も撮ってもらったり、彼女たち二人を撮ってあげたりの繰り返しです。小さな男の子を連れた金髪の女性が近づいて来て3人一緒の写真を撮ってくれました。
一緒に写真を撮るとき、ベトナム人の彼女たちはそっと手をつないできます。日本とベトナムの交流の歴史は長く、16世紀には中部のホイアンに日本人町ができたといいます。ベトナムは社会主義国ですが、市場経済の導入と開放化により目覚しい経済発展を遂げつつあります。過去から未来へとこのつながれた手の重さは一生忘れられません。それと同時に、昔は日本でも母娘や女性どうし大人が手をつないで歩くのはさほど珍しいことではなかった気がします。何げないこうしたスキンシップは心の優しさや豊かさのような気がするのですが、いつの間にか日本にはなくなってしまったとふと寂しくもありました。
河口容子
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