[283]良い人間関係はじっくりと

せちがらい世相のせいか、終身雇用制度の崩壊で労働観が変わってしまったのか、豊かな中で育った若者がふえたのか、「言われたことを最低限しかしない」「人が良さそうなら徹底的に利用する」ビジネスパーソンたちの急増に思わず溜息が出てしまうことがあります。中にはそれを世渡り上手と自負している人もおりあいた口がふさがりません。転職をしようがしまいが、仕事人生というのはえんえんと連続するもので、汗と涙の結晶が時とともに輝き出すものだと思います。
2007年 2月15日号「コラボはチカラ」に登場する同業者の Yさんから「取引先の物流会社の方がベトナム大使館からある案件を依頼されたので智恵を貸してもらえませんか」とメールが来ました。ベトナム大使館の誰から依頼されたのかと聞くとなんと私のベトナム・セミナーの日本側の窓口である S商務官ではないですか。そして Yさんとこの物流会社を訪問してミーティングを行なったところ、物流会社の窓口は私が東京で行なったセミナーに出席してくださった Tさんでした。まさに世間は狭いとしか言いようがありません。
そもそも Yさんと知り合ったのは2005年の春でジェトロ(日本貿易振興機構)と貿易コンサルタントたちの会合でした。 S商務官とは2005年夏頃、アセアン関連のイベントで知り合い、2006年度のベトナム・セミナーから担当になります。 Tさんは2006年 8月のセミナーにお越しいただき、セミナー後1-2 度メールを交換させていただいた記憶があります。それぞれまったく違う経緯で知り合い、その時は2-3 年先にこのようなつながりになるとは誰も予測はしなかったはずです。一同「なあんだ」という感じで即プロジェクト・チームが出来上がりました。
ちょうど香港向けに小口の貨物を出す業者を探していたので、これも何かのご縁と思い上記の物流会社にお願いすることにしました。会社員の頃から「取引先第一主義」のお手本であった私は、まず取引先の商品は(いただくのではなく)お金を出して買う、その企業や担当者の業績に寄与することは自分の仕事と関係なくても積極的にやって来ました。そのせいか、社内でピンチの時も取引先に救われたことが何度もあります。また、何年、何十年たっても私の事を覚えていてくださり、突然ビジネスが立ち上がることもあります。
香港のビジネスパートナーとは知り合ったのはまだ会社員の頃の 9年前で、一緒に仕事を始めたのはこの 3年後です。当時、私自身も起業の計画は一切ありませんでした。彼にとって何度も来日経験はあるものの、日本企業で仕事の話をした女性の第一号が私で、突然国際弁護士を紹介してほしいと言われて困った上司に代わり、即前の職場の時にお世話になった弁護士とアポを取り事務所までお連れしたというエピソードが強く印象に残っていたようです。彼は次ぎ次ぎと新しい事業に没頭するため、何ケ月も一緒に仕事をしないこともありますが、そのまま疎遠になることはありません。私自身が目先の損得だけで騒がない人間であることをよく知っているのといざとなれば一番信頼が置ける人間の一人だからでしょう。
私のメルマガの発行管理をしてくださっているデジタルたまごやさんともかれこれ 8年のおつきあいになりますが、小さいものの 2度ほどお仕事をお願いする機会ができました。当初、私の仕事とはまったく接点がないだろうと思っていただけに大いなる進歩だと思っています。また、読者であるパリ在住のコンサルタントの Nさんとも 2-3年かがりでやっとお目にかかれ、コラボ案件の依頼をいただきました。
真面目に丁寧に取り組む者どうしが出会えばいつかは仕事の花が開くものです。最初にあげた例などは縁が連なって円になった良い例です。事務処理は手早く正確に、良い人間関係の構築はじっくりと。新年度に贈る言葉です。
河口容子

[280]続 夢を紡ぐ人たち

 「誠実」で「努力」する人を私は好きです。そして夢の実現を目指して日々精進する姿と出会うのは何よりもうれしい事で、思わず応援したくなります。
 先日お会いしたのは韓国人女性で日本に住んでもう 6年、日本市場向けの販促グッズの仕事を始めて14年になると言います。日本の顧客から注文を取り、中国の工場で作ってもらい、上海や青島周辺の工場は知り尽くしています。次はベトナムと出資者を募りベトナムに工場を作り、社長になりました。ベトナムに工場を作ったのはもちろんビジネスのための必然性ではありますが、「自分の工場を作るのが夢だった」そうです。ベトナムとものづくりが大好きな彼女は毎月10日ほどベトナムに滞在します。自分の思いを従業員に理解してもらってから定着率が上がったらしく、旧正月で郷里へ帰った従業員が友達を連れて帰って来てくれた事に目を細めて喜んでいました。成長著しいベトナムでは労働条件が少しでも良いほうへ人はどんどん流れていくのです。「今は大変だけれど、早く利益をたくさん出してあの子たちと楽しい思い出をたくさん作りたい。」女性経営者ならではのやさしさ、夢をふくらませていこうとする力強さに感動しました。
 香港のビジネスパートナーの会社に日本人男性がいます。板前さんですが、自分の店を持とうと香港に渡りましたが、仕入が難しいことがわかりビジネスパートナーの所有する日本食材の輸入会社に就職しました。まずは仕入ルートの勉強をと思ったようです。「毎日調理をしないと技術を忘れるようで不安ではありませんか」と私が聞くと「それは感じますが、トレンドは取引の中で見ているだけでもわかります。それに今やっている仕事はすべて調理すること、店を持つことにつながっているのですから、まずはマスターしないと。」と一生懸命貿易実務も勉強しています。本当に夢を持つ人のエネルギーは計り知れないものがあります。
 私の祖父は貿易商でした。敗戦までは中国から中東にいたるまで42ケ所に営業所を持っていました。天津の店の資産は当時の東京都の予算よりも大きい金額だったと言います。この話を香港のビジネスパートナーに昔話として教えたところ「何か証明できるものがある?政府筋に親しい人がいるから話してあげるよ。今の人民政府は証明さえできればちゃんと返してくれから。」「いいのです。私が儲けたお金ではありませんし、祖父たちは当時裕福に暮らせたのですから。中国の方々が有効に使ってくれたらと思っています。」「そう、それはありがとう。」香港のビジネスパートナーとの出会いと中国ビジネスは亡くなった祖父が導いてくれたもの、あるいは私の中の DNAが目覚めたとしか思えませんでした。その頃から「日本とアジアの中小企業の国際化」が明確な仕事のテーマとなり、「クライアントの夢」が「私の夢」と重なるよう努力をしてきたつもりです。
 祖父の会社は敗戦と同時にすべての海外事業所を失います。もともと国内の商売のウェイトが低かったために私が中学に行く頃倒産してしまいます。もう当時の栄華を知る人もこの世にはほとんどいませんが、私は運命的に祖父のたどった道、アセアン諸国へと足を踏み入れることになります。先日、昭和18年 4月 7日付けの大阪朝日新聞「仏印進出の日本商権」という記事を見つけました。前年の仏印経済協定の締結を契機に大量の邦人商社が一斉に渡航しその根をおろしたと書いてあり、もちろん祖父の会社の名前も出ています。65年前の日本もベトナム進出ブームだったわけです。65年の時を越えてベトナムに私が心惹かれるのも DNAのしわざに違いありません。
河口容子