メル友

 初めてインターネットが怖いと思ったのは自殺に関するサイトで知り合った二人が心中した事件です。いくら関心事が同じとはいえ、ほとんど会ったこともない二人が一緒に自殺するという展開に新しい事件の形を見た思いがしました。その後、出会い系サイトで知り合った男女の殺人事件があいついで起こっています。私などは会ったこともなく、その人のプロフィールも知らずメールの交換をすることにはとても抵抗のある人間ですが、出会い系サイトはどんどん増えています。

 まず、ハード面から携帯電話のメール機能の普及です。パソコンを持っていなくてもメールが使えるとなれば、学生、主婦、とあらゆる層の利用が可能となります。携帯でいきなり長文のメールを打つ人はそんなにいないので文章力に自信のない人でも抵抗がなく始められます。

 心理的な原因のひとつは「誰かにほんとうの自分を理解してほしい」という願望。家庭内や各人の属するコミュニティの人間関係が希薄、かつ穏やかなものになりすぎている現代では、自分が傷つきたくないから相手の期待する人間像という仮面を着て生活をすれば丸くおさまる、という変な賢さを子どもでさえ持っているような気がします。かわりに自分の実生活と関係ない所で自分の言うことを聞いてほしい、メールなら姿形も見えず声も知られることがない、手書きの文字でその人を表すこともない、という「完全犯罪」にも似た都合の良いツールであることです。

 もうひとつは「変身願望」や「ドラマ性への期待」。文章力があればあるほど理想的な自分を創り出せます。性別や年齢を偽ることも可能です。また、書くことにより自分の人生を見つめ直すと同時にドラマ性を見出す快感やよりドラマチックなことへの期待感も生まれてきます。自覚できる人はまだしも、書くという孤独な作業では知らず知らず虚飾の世界にはまってしまう人もあるでしょう。

私は中学生の頃カナダとインドに同い年のペンフレンドを持っていました。当時は1ケ月にやり取りが一往復すれば良い方です。この間の長さは実生活との隔たりをいやでも認識せざるを得なかったし、一生に一度会うのが夢みたいものでした。ところがメールではすぐ返事をもらうことも可能、あたかも電話で話しているような錯覚すらおぼえます。また、交通の手段の発達した現代なら会おうと思えばいつでも会えます。そこに仮想と現実の混在があり、事件につながる危険性をはらんでいるような気がします。

核家族化は他人との付き合い方を忘れさせてしまいます。言葉足らずでも親兄弟なら十二分に理解してくれ、そっと手を差し伸べてくれるからです。その延長で社会へ出てしまうと、堅苦しい相手とは話ができない大人や一人よがりばかりがふえ、「節度ある親しさ」というバランスのいい交際技術を持っている人はまれにしかいません。生きていく上で夢は必要です。自分の夢や空想に相手を引きずりこみ、あるいは相手の夢にメールならこのくらい平気と調子を合わせてしまうと、現実との乖離に気づいた時受ける衝撃は相手をこの世から抹殺してしまうくらいのパワーを持つのかも知れません。匙加減ひとつで薬にも毒にもなるように、文明の利器も使いかたひとつで命を救うこともできるし殺人にもつながることを思い知らされました。

2001.06.01

河口容子

教科書検定で思ったこと

 教科書検定をめぐって国内外で熱い話題となりました。私自身も教科書や学校から離れて何十年もたっており、久しぶりに学校教育について考える機会となりました。

 「検定」制度は、明治19年から施行されているもので、国民全員に最低限の教育を平等に施し、強い近代国家を目指すという時代背景があります。放置すれば学校教育を受けられない人間の方が多い、また周囲に教える人間が少ないという時代においては、学校教育内容の規準を決めることは、その価値を大人たちにも認識させ、大量の教員を養成するにも強い必然性があったと推察します。一方、いわゆる学問的な教育は普及していなかったものの、躾や倫理観という教育は家庭でも社会でもきびしく施されていたと思います。

現代では様相が一変し、まず社会そのものが複雑化し、また価値観も多様化しており、共通のものさしをあてはめるのは極めて困難です。幼い頃から学校外教育も含めて情報過多になっており、極端に言えば学校へ行かなくても学ぶ方法はいくらでもあります。そこをあえて義務教育とするならば、学校という家庭より大きな社会の一員として良い生活習慣を身につけること、善悪を判断する力、選択眼や適応力の育成が大事なのではないかと感じます。

学校での勉強というのは、実用的な面と個性の発掘や情操面での発展、論理的な思考の育成とさまざまな目的を持っていると思います。また、普遍的なものと時代に合わせて変えるべきもの、時には先取りするものとメリハリをつける必要もあるのではないでしょうか。それらを「検定」すなわちマニュアルで押さえ込み、通りいっぺんの教育を行うことはもはや教育の機会均等を通り越して単なる形式主義にすぎない印象を受けます。教える内容ばかりにこだわってきたため、塾の過熱化や家庭教育がおろそかになる原因を作った気がします。

小中学生の頃を思い出してもどんな教科書を使ったかはあまり印象にありません。先生の印象の方がはるかに強いものです。自分の個性を引き出してくれた先生、厳しかったけれどあとあと役立つようなアドバイスを下さった先生はいつまでも覚えています。教科書の中味をどうこう議論するよりも教員の質を高める、より効果的な指導法を考える、あるいは家庭や社会での教育との連携を考える方がもっと重要なことではないでしょうか。日本は入社してから挨拶のしかたの研修をするような変な国です。

海外からいつも批判される歴史の記述については、なぜ客観的な事実をストレートに書けないのかという疑問がずっとありました。そして、歴史は人間にかかわるものである以上さまざまな歴史観があること、だから歴史は面白く、誰が悪で誰が善と決め付けにくいのだということも理解しなければなりません。タイムマシンでその時代へ戻れても登場人物の深層心理まで覗くことは不可能だからです。また、戦争は「負ければ悪」というドライな政治的ルールを理解せず「ケンカ両成敗」というような道徳観とごっちゃになっているところが日本の戦後処理がいつまでたっても終わらない原因だと思います。

2001.05.25

河口容子