教科書検定で思ったこと

 教科書検定をめぐって国内外で熱い話題となりました。私自身も教科書や学校から離れて何十年もたっており、久しぶりに学校教育について考える機会となりました。

 「検定」制度は、明治19年から施行されているもので、国民全員に最低限の教育を平等に施し、強い近代国家を目指すという時代背景があります。放置すれば学校教育を受けられない人間の方が多い、また周囲に教える人間が少ないという時代においては、学校教育内容の規準を決めることは、その価値を大人たちにも認識させ、大量の教員を養成するにも強い必然性があったと推察します。一方、いわゆる学問的な教育は普及していなかったものの、躾や倫理観という教育は家庭でも社会でもきびしく施されていたと思います。

現代では様相が一変し、まず社会そのものが複雑化し、また価値観も多様化しており、共通のものさしをあてはめるのは極めて困難です。幼い頃から学校外教育も含めて情報過多になっており、極端に言えば学校へ行かなくても学ぶ方法はいくらでもあります。そこをあえて義務教育とするならば、学校という家庭より大きな社会の一員として良い生活習慣を身につけること、善悪を判断する力、選択眼や適応力の育成が大事なのではないかと感じます。

学校での勉強というのは、実用的な面と個性の発掘や情操面での発展、論理的な思考の育成とさまざまな目的を持っていると思います。また、普遍的なものと時代に合わせて変えるべきもの、時には先取りするものとメリハリをつける必要もあるのではないでしょうか。それらを「検定」すなわちマニュアルで押さえ込み、通りいっぺんの教育を行うことはもはや教育の機会均等を通り越して単なる形式主義にすぎない印象を受けます。教える内容ばかりにこだわってきたため、塾の過熱化や家庭教育がおろそかになる原因を作った気がします。

小中学生の頃を思い出してもどんな教科書を使ったかはあまり印象にありません。先生の印象の方がはるかに強いものです。自分の個性を引き出してくれた先生、厳しかったけれどあとあと役立つようなアドバイスを下さった先生はいつまでも覚えています。教科書の中味をどうこう議論するよりも教員の質を高める、より効果的な指導法を考える、あるいは家庭や社会での教育との連携を考える方がもっと重要なことではないでしょうか。日本は入社してから挨拶のしかたの研修をするような変な国です。

海外からいつも批判される歴史の記述については、なぜ客観的な事実をストレートに書けないのかという疑問がずっとありました。そして、歴史は人間にかかわるものである以上さまざまな歴史観があること、だから歴史は面白く、誰が悪で誰が善と決め付けにくいのだということも理解しなければなりません。タイムマシンでその時代へ戻れても登場人物の深層心理まで覗くことは不可能だからです。また、戦争は「負ければ悪」というドライな政治的ルールを理解せず「ケンカ両成敗」というような道徳観とごっちゃになっているところが日本の戦後処理がいつまでたっても終わらない原因だと思います。

2001.05.25

河口容子