情報化という前に

私が総合商社に入社した24年前はまだFAXもなく、海外との交信はもっぱらテレックスに頼っていました。国際電話料金もテレックスにしても現在とは比較にならないほど費用のかかる時代でしたから、電話をかける前に内容をメモして手短に適切に話をする、テレックスにしても原稿を上司がすべてチェックしてから出すということが徹底されていました。

特に、受け取ったメッセージにすぐ返事が出ているかもチェックされました。受け取ったものに対し何らかの意思表示をしない限り相手は受け取ったのかどうか、読んだのかどうかもわからないからです。イエス、ノーはもちろんのこと、出張で本人が不在の時はかわりの人間が、その旨返事をします。あるいは終日会議で返事ができない場合も「了解。明日返事します。」と短い返事は必ず出しました。相手に無駄な動きをさせない、こちらの現状を知らせる、これが基本動作です。

 情報手段の発達により、オフィスの中に異変がおこりました。ひとり1台ずつパソコンを持って自由にFAXや電子メールで交信できるようになりました。こうなると上司の管理は非常にむずかしくなります。必ずコピーを上司におとすように決めていても、意図的にあるいはうっかり、コピーがおちないことは多々あります。また、どんなメッセージをもらったのか、返事がきちんと出せているのかすらわかりません。はなはだしきは私用のメールばかり打っていても気づかないこともあります。そういう見地からひとりずつパソコンは持たせない、メールアドレスも社員ひとりひとりに持たせない、という企業はまだまだあります。遅れた会社と思う方もあるでしょうが、私は組織としての見解やマナーの維持という観点からはそれもひとつの見識と思っております。

 総合商社に勤務中も独立した現在もですが、FAXやメールを出しても返事の来ない会社、(中には教育委員会というのもありました)が結構あります。すでに面識のある人に対して、具体的な内容の話で、おまけに「ご回答をお願いします。」と書いていてもです。1週間たっても1月たっても返事は来ない。中には催促をしても知らん顔の会社があります。あるいは電話で確認すると「読みました。」という人もいます。FAXやメールはその人にとってどうやら「読み物」であり、返事をする手段としてはとらえていないようです。あるいはパソコンで返事を打つスキルがないのかも知れません。こういう経験もあります。「詳細はともかくイエスなのかノーなのかだけでもお返事ください。」と言ったところ「私にはイエス、ともノーとも言える権限はありません。」と答えられてしまいました。要は何もしていないのです。

ところが、そういう会社に限って自分の用がある時は人の都合もおかまいなしにやって来たり、うるさく電話を何度もかけてきます。「興味がなければ返事をしない、用があればこちらから言う。」というのは一見合理的なようですが、ビジネス・マナーから言うと最低であるばかりでなく、ビジネスの種を自ら摘み取っているようなものです。私はふとしたコミュニケーションの積み重ねからすぐれた発想や成功が生まれた例をいくつも知っています。

礼儀正しさは日本人の美徳であったと思います。ところが最近感じるに上記のような失礼な会社は日本企業、特にベンチャー系の企業に多く見受けられます。新しい発想や個性と無礼講の見事なはきちがえです。むしろ外資系の企業、あるいは海外の企業にコミュニケーションに対する完璧なマナーを守っていることが多く、感動させられます。薬品も使い方しだいで薬にも毒にもなるように、情報機器が便利で安価になったことを悪用してはいけません。上手に効果的に使えるマナー、判断力を身に付けていかないと、技術力の進歩とは裏腹に人間性のお粗末さだけが目だつような気がしてなりません。

2000.11.30

河口容子

携帯電話狂騒曲

 電話は20世紀最大の発明とよく言われます。電話回線を利用したFAXやインターネットも含めて私たちのライフスタイルやビジネススタイルを急速に変えてきたことは間違いありません。ここへ来て携帯電話も従来中心であった若者のみでなく中高年層までユーザーが広がっています。また、携帯電話を使ってのゲーム、メール、銀行振込、各種情報と応用分野も日進月歩です。

 応用分野が進む割には向上しないのがマナーです。再三の電車内の放送にも係わらず平気で車内で携帯を鳴らし話している人。聞こえてくる限り、今そこでどうしても話さなければならない用事の人はほとんどありません。家にいると道を歩きながら馬鹿な話を携帯電話にむかって大声で話している人の声がいきなり飛び込んで来たり、外では自転車に乗りながら携帯電話で話している人とあやうくぶつかりそうになったり。最近では美容室でシャンプーをしてもらいながら携帯電話でおしゃべりを店内全員に披露していた女子高生に遭遇、寸暇もおしまず話しまくるというこの現象はいったい何なのかを考える以前に、周囲の他人の迷惑より、個人の勝手気まま優先という時代の風潮におそろしいものさえ覚えました。

私は電話嫌いで緊急時以外に私用で電話を使うことはめったにありません。ほとんどメールか郵便です。電話をかけるということは相手が何をしていようと無理矢理電話口に呼び立てる行為です。お風呂に入っていたり、食事の支度中であったり、来客中であったら申し訳ないと思うとなかなか電話をかける気になれません。その点、文書なら落ち着いたときに読んでもらえるし、繰り返して読むこともできる、嫌なら捨てるという選択権も相手にあります。

 そういう私もビジネスでは携帯電話の恩恵に預かっています。外出先からの会社への連絡、初めて訪問する取引先に道順を聞きながら行くときなど公衆電話をさがしまわる手間がなくなりました。タクシーや新幹線で移動中でも連絡が取れますし、取引先から確認の電話をもらうまで席に座ってずっと待ち続ける必要もなくなりました。待ち合わせをしてはぐれた時にもお互いの居場所を確認できます。

 便利な電話が自分のそばにいつでもどこでもある、これはたいした発明でもありますが、逆に話すことが非常に容易すぎて中身のない会話になってきている気がします。携帯のない時代、家に電話機が一台しかない時代は恋人に電話をかけるには、こっそり家を抜け出し公衆電話にかけに行ったものです。冬寒い中小銭を握りしめて電話ボックスに走って行き、やっと話せる緊張感と喜び。私の上司は昔単身赴任先から毎日100円玉分だけ公衆電話から家族に電話をしていましたが、その100円玉分の時間は家族にとってどんなに凝縮されたふれあいの場だったか想像できます。こんな思いは携帯がある今はもうできません。便利さと同時に失うものがあることも忘れてはいけません。

 携帯電話に期待することは、これからの高齢化社会に向けて、お年よりのための携帯電話の各種サービスの開発です。たとえば、お年よりが急に具合が悪くなったとします。あるボタンを押すと場所を探知して救急車が来る。救急隊員が身内などの連絡先を調べられる。あるいはセキュリティ会社と契約をしておいていつでも助けを呼べる機能がついていれば、特にひとり暮らしのお年よりにとってはどんなに頼もしい家族になるかわかりません。  

2000.11.23

河口容子