[166]つけこまれやすい日本人

 2003年 1月16日に「国際人としての覚悟」というタイトルで書かせていただいてからもう丸 3年近くになります。日本企業の国際化もどんどん進み、最近ではおやこんな会社がと思うようなところがアジアにしっかり工場を持っていたり、販売拠点を持っていたりします。
 私の取引先で従業員10人強の雑貨を扱っている企業は一部の製品を中国の契約工場で作っています。数年前全製品の 1-2割を中国の契約工場で生産することから始めましたが、今では 8割以上になっています。ところが、最近になり 2-3年かけてベトナムへ生産地を移転したいと言い始めました。事の発端は、ある製品の詰め物に特殊な素材を使うよう指示したにもかかわらず、抜き打ち検査をしたところ「ゴミが詰められていた」という事件です。「そんなに日本人が憎いんでしょうか」と営業の責任者は怒り爆発です。以前から品質向上のため社員を何回も工場へ送ってみたものの、滞在中は指示どおりにやるものの、日本へ帰れば元の木阿弥です。こんな相手では信頼関係はもう築けない、というものです。
合弁相手に資本金を持って逃げられた話、代金を払ってくれない話(これは今でも数え切れませんが)、コンテナをあけたら商品のかわりに砂が入っていた話など中国ビジネスのこわい話は枚挙にいとまがありません。ひっかかった人は中国人を悪人のように言いますが、私は次のように考えます。どこの国にも悪人はいますし、人口が多ければ悪人の絶対数も多い、また競争が厳しい社会で法整備が遅れているとなれば、儲けるためには手段を選ばない、あるいは目先の損得優先という人も多いだろうということです。日本人は全般的に性善説でものごとをすすめます。また、他人から得る信用であるとか中長期にわたる客先との友好関係を大事にするため、小さいことは黙って我慢してしまいがちです。そこをつけこまれているケースが多いと思うのです。
 上の取引先のケースでも、どんな経緯か知りませんが、中国の貿易会社が仲介をしています。この貿易会社の社長は日本語が得意です。上の取引先には貿易の経験者は誰一人いません。おそらく日本の商社を通すより経済的とふんだのかも知れませんが、私から見れば中国側に自在に操られても仕方がないシチュエーションを自ら選んだとしか言い様がありません。おまけにこの会社は価格交渉を一切しないそうです。いったん商品の価格を決めたら、何が起ころうとその価格で買い取っているそうです。「私なら不良品が多ければペナルティとして値引き交渉、製造個数が増加すれば単価を下げてもらうなど交渉しますが。」と言うと「そんな面倒なことを」と言わんばかりの顔をされます。
 「信賞必罰」悪く言えば「アメとムチ」。日本人はほめ下手な上に、ぶつぶつ文句は言うものの、論理的にきちんと賠償請求をするなんてこわくてとてもできない臆病者です。上にあげた「詰め物にゴミ」の場合でも日本人は馬鹿にされたと怒りますが、中国人は中国人で「外から見えもしないのに、影で点検してぶつぶつ言う日本人は何とネクラな性格」と思っているかも知れません。
 貿易というのは経験と忍耐、工夫が必要です。私は日本人との違いをよく観察、分析し、注意すべき点と同時に相手の良いところを見つけるようにしています。日本人どうしならはっきり言わなくても阿吽の呼吸で通じますし、むしろ露骨な表現は相手に失礼などというビジネス社会です。ところが相手が外国人の場合はこれでもか、これでもかと言っておかないと、「言わなかったあなたが悪い」といわんばかりの言い訳で逃げられてしまうことがあります。もちろん、言うだけでなく、きちんと文書で残すことが大切で、私は電話で大切な事を話した場合はあとで必ず内容の確認のメールを入れ記録に残します。時系列的に整理しておけば、複雑な経過をたどったり、途中で中断した案件が復活する場合にも経緯を調べやすくなります。
河口容子

[165]競争社会

 東欧が自由主義経済になった頃、総合商社にいた私はチェコとハンガリーから家庭雑貨を輸入していたことがあります。チェコからはクリスタルのカットガラス製品を扱いましたが、社会主義時代には日本向けはある専門商社が独占的に取り扱っており高級品の代名詞のようなものでした。自由化とともに誰でも輸入できるようになったのですが、かなり面白い経験をしました。私の取引していたのはカット工場ですが、カットする前のガラス製品はまだ割当制で毎月どんなガラス製品が来るか来るまでわからないのです。「何を何個と発注してくれても作業中に割れることもあり、発注どおりにそろえられるかどうかわからない。金額の枠を決めてくれれば適当に見つくろって送ってあげる。その方があなたも楽でしょう。」というような言い方です。「日本の住宅事情を考えると大型のものは売れにくいし、日本人の好むデザインとそうでないものがあるから選択は必要だ。」と言うと「お金を持っているのならつべこべ言わずに買えばいいのに。」と言いたげな様子でした。また、「運賃を節約するために大量に出荷できないか。」と聞けば、「今の量で皆残業もせずに社員が十分に平穏な暮らしを送ることができるのだから、あくせく残業までして稼ぐ必要はない。」この一言にはあきれたと同時にひょっとして彼らのほうが日本人より豊かなのではないかと思いました。一方、日本では輸入業者間の競争でカットガラス製品はあっという間に値崩れ、儲からないので撤退が相次ぎました。
 これと同じ現象が中国段通(だんつう、じゅうたんのこと)にも起こりました。以前、中国段通は玄関の敷物として一家の自慢する高級品でした。これも指定商社制がなくなると、一斉に値崩れが起こりました。上のチェコの例はヨーロッパ的気質を感じさせますが、中国人は薄利多売が得意です。これは人口が多く、人件費が安いので今でも脈脈と生きている論理です。おまけにその頃の中国製品は安かろう、悪かろう、とにかくお金になれば手段を選ばずの時代でもありましたので、段通の品質も価格もあれよあれよという間に落ちていきました。買い手側の日本人も気にいらなければその工場を切り捨て次を探すという按配で、こういう競争の形態に入れば、日中双方ビジネスとしても感情的にも長続きせず、段通も商品価値を落とし最悪の結果となりました。
 これらが統制経済から自由競争時代に入ったときに起こったことです。今の日本も本当の意味ではやっと自由競争時代に入ったとも言えます。どちらかというと上の中国パターンに似てはいないでしょうか。企業も個人も二極分化が見られるようになりました。競争原理がはたらいて、より良い商品やサービスがリーズナブルな価格で提供されるのは素晴らしいことです。一方、努力できない、能力がないところが淘汰されていくのは仕方ないでしょう。ところが、競争社会には耐震強度偽装問題に象徴されるようにお金になれば手段を選ばずという企業や個人も出てくることは否定できません。自由競争の前提として誰もがチャレンジできる機会を公平に与えること、公正さが維持されることです。これなら、その結果に差が出ても誰もが納得できるはずです。
 私が起業をした2000年はITを始めとする起業ブームでした。あの頃は知らない人どうしでも一緒に仕事をしよう、会ってみようという自由な空気があった気がします。今は取引先が取引先を紹介してくれる、つまり実績や人脈がものを言う時代に変わってきています。ビジネスをとりまく犯罪が急増し、警戒心が生まれたとも言えますが、これでは能力があっても新規にビジネスを始める人にとってはチャンスがないわけで起業はできても長続きしない原因のひとつになっていると思います。
河口容子