[160]ローレンスと呼んで

 最近笑いころげたメールがあります。1行目に「私をローレンスと呼んで。」と書いてあるのです。差出人はシンガポールのコンサルタント会社の社長で提携相手です。提携相手と言っても会ったこともなく、互いに政府機関の仕事が多く、その実績をチェックしあえたため、何か依頼することがあったらお互いに連絡しあいましょう、という関係になりました。相手の年齢も知りませんし、仕事に関して数回やり取りをしただけなので、フルネームを宛先としてメールを送ったところ、上記のような返事をもらいました。もうファーストネームで呼んでいいよ、という合図でしょうが、姓からして中国人で、そんなに西洋風の名前で呼ばれたいのかという可笑しさもありました。
 ビジネスの世界で初対面からファーストネームで呼び合うというのはあまりないと思います。特に年齢差、職位の差が大きいと日本人でかつ女性の私としてはある程度親しくなってもなぜか抵抗があります。特に相手がアジアの方の場合、個人的にも親しくならない限りファーストネームで呼び合うことは少ないのではないかと思います。そろそろ他人行儀はやめてファーストネームで呼ぶべきなのか、あるいは逆に失礼なのかという判断はいつも頭の痛い問題です。私自身も相手からいきなり「ヨーコ」と呼ばれるのもあまり気分が良いものではないからです。外国人にとって「カワグチ」というのは発音しにくく、覚えにくいと思うので「ヨーコでいいですよ。」と言うこともありますが、アジアの方は申し訳なさそうに最初は 「ミス・ヨーコ」と呼んで下さることが多いようです。その点、日本語は大変便利で、姓に「さん」あるいは「役職名」をつけて呼べばまず問題はありません。
 私の友人たちには自分だけの呼び名を作ってくださる人が何人かいて、ひとりは米国の弁護士ですが、私のことを「カワサン」とずっと呼んでいます。「母さん」を連想させ、私と同年輩で 2倍くらいの体格の彼がそう呼ぶと周囲の日本人は爆笑です。「カワグチ」が面倒くさいのかと思っていたら、会議メモにはすらすらと「ミス・カワグチ」と書いているのです。冗談で「私の名前をきちんと覚えてくれていたのですね。」と言うと「当たり前だよ。カワサンは僕だけのニックネームだよ。」と笑っていました。
 ジャカルタからニュージーランドのオークランドに移住した華人の友人は10年来「ヨーコサン」(インドネシア語アクセントですのでヨコサ?ンと聞こえます)と呼んでおり、会社員の頃も電話を取り次いでくれる同僚たちからは「甘ったるい」とからかわれていました。他の親しい友人にはファーストネームで呼ぶのでなぜいつまで「サン」づけて呼ぶのかとたずねたところ「この響きが好き。それに他に誰もそうやって呼ばないから。」だそうです。
 香港のビジネスパートナーの弟のほうは「ヨーコ」と呼ぶのですが、中国語の声調を残すので「ヨォ公」とも聞こえます。ポチ公ではあるまいし、美しい英語の使い手であるだけにがっかりもするのですが、他の人には普通の英語のイントネーションで呼んでいるのでこれもこだわりかと思い、やめてほしいとはなかなか言えません。
 逆に香港のビジネスパートナーたちを何と呼ぶかには苦心しました。同姓ですから「ミスター○○」では識別できません。私あてのメールに兄はフルネームのイニシャルであるアルファベット3文字で署名をしますので、フルネームに「サン」をつけて呼ぶことにしました。弟は英語のニックネームで署名しますので、それに「サン」をつけて呼んでいます。一応兄を立てる形になりますし、「サン」をつけることにより敬ったニュアンスと柔らかい響きが出ます。こうやって呼びわけるのは世界中で私しかいませんので、新鮮な喜びがあるらしく少し照れたようにニッコリ笑ってくれます。
河口容子

[159]グッドデザイン賞大賞に見る「ものづくり日本」

先日ベトナム出張にご一緒させていただいた工業デザイナーの Y先生はグッドデザイン賞の審査員でもあり、先生のおすすめもあってグッドデザイン賞の大賞の選考会の見学に行って来ました。今年のグッドデザイン賞は 3,000点以上の応募があり、受賞した 1,158件から部門ごとに15件金賞が選出され、この中からまた大賞が選出される仕組みです。大賞の選出は審査員と全受賞者により公開の投票によって行なわれます。まずは上位 5点が選出され、次に 5点の中で再投票、その中で最大得票を得たものが次点より 100票以上の差があれば大賞の決まりです。
製品もあれば、コンテンツ、美術館、都市開発など広範囲の中からどれが大賞か、いわば今年の顔を選ぶというのはとても難しい事です。結果は、ダントツで世界一細い注射針となりました。この注射針は糖尿病患者がインスリンを注射するときに使うもので、痛みを感じないという特徴があります。
大賞をどれにするかということは審査員それぞれの究極の考え方、見方があると思いますが、私は「ものづくり日本」の真髄を見た思いがしました。まず、職人芸に支えられた高い技術力です。この注射針はTV番組でも取り上げられたのでご存知の方も多いでしょうが、開発に 5年、金属加工メーカー 100社以上に依頼してもできなかったという超難易度の商品です。最後に日本の町工場の代表選手 O社の社長が「みんなができなければ自分がやるしかない」と引き受け成功したものです。拡大鏡で見なければ見えない微細で一見シンプルな製品でありながら、その技術の高さや苦労を専門家でなくても多くの人が評価できるというのは「ものづくり」国家ならではの現象でしょう。
次に市場性があること、メーカー曰く「患者さんの願いが不可能を可能にした」と。メーカーが競争で新製品を作ってくれますが、「あってもなくても」という製品や「好き嫌い」の極端に分かれる製品もあります。日本だけでも糖尿病で自分で注射を打たなければならない患者は60万人いるそうですから、確実に市場があり、海外への市場開拓の余地もあります。医療用具ですから社会性もあります。注射器がまわし射ちをしていた時代からディスポーサブルの注射器にいつしか変わったように痛くない注射針が当たり前になる時代も遠くはないでしょう。そういう新しい基準を作るという意味でもこの製品の受賞は意義があると感じました。デザインという視点のみならず、日本が世界の中で「ものづくり日本」として生き残るには上記のようなポイントが求められており、まさに時代の鏡としての受賞だと感じました。
私自身は「機能性にすぐれたものはすべて美しいデザインである」という持論の持ち主です。確かに一般の注射針とは若干形状が違うのですが、この注射針がはたしてグッドデザインなのかと首をひねる私に知人でこの賞を主催する財団法人の理事が次のように答えてくれました。「渋好みの日本人がこの製品を選ぶだろうというのは想定内。デザインとは人の痛みをやわらげてくれるもの」。確かに良いデザインは人間に安らぎや楽しさを与えてくれるもので単なる主観的な評価ではなく、ものづくりや販売ということにいかに強く結びついているかを実感した 1日でした。
河口容子
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