暑さは梅雨明け前から続き、熱帯顔負けの暑さです。8月というと広島、長崎の原爆記念日は忘れることができません。私の父方の祖母は広島で被爆し1963年11月に白血病で亡くなりました。米国人の友人たちに父は広島の出身で、というと「誰か原爆の被害に遭ったか」と必ず聞いてくれ、祖母の事を話すと大変悲しそうな申し訳そうな顔をしてくれます。皆戦後生まれでそのような話になるとは想像だにせず、かえって恐縮してしまったことが度々ありました。そのくらい善良な米国人の心にはいつまでも原爆投下の後悔は脈々と受け継がれています。
祖母の死を無駄にしたくないと思い、私はある電力会社の原子力発電の推進に賛成の投書をしたことがあります。核の有効利用によって祖母の死が報われるような気がしたからです。ところが、後日度重なる原発事故で、ずさんな管理に驚くとともに日本人の誠意というものを疑うようになりました。被爆の影響というのが、こんなに医学が進歩したにも拘わらず、あまり公表されていないのは何故なのでしょう。かつて世間を騒がせた被爆者2世への影響、残留放射能による影響はどうなったのでしょうか。
そして終戦記念日。1937年7月以降8年あまりの戦争での日本人の死者は約310万人といいます。そのうち軍人、軍属が約230万人です。それも人命を無視した無謀な作戦や補給の軽視による餓死者が多いのが特徴です。また、民間人にいたっては政府の調査は行われていません。沖縄やサイパンでは日本軍によって殺された人もいるし、旧満州では日本軍に見捨てられ犠牲になった人も少なくありません。
アジア全体では日本の侵略により約2000万人が命を落としました。この日本の侵略が欧米列強の植民地からの独立につながったと前向きに考えてくれる国民もいれば、いつまでも戦後処理が後を引いている国々もあります。私がいつも感じるのは被害をこうむったアジアの人々に申し訳ないと思う気持ちとそれと同時に日本国民のほとんども被害者であるということです。誰も喜んで戦争に行ったわけではありません。1930年生まれの母の青春時代はほとんど戦争でした。大学生の時に徴収された父や伯父もすでにこの世にはいません。なぜ日本人が皆戦争にのめりこんで行ったのか、誰がそうさせたのか、そのプロセスを一番私は知りたいと思っています。それが国家権力の怖さだからです。
各地で起こる地域紛争やテロ事件に日本人は平和を希求する国民として非難します。変わり身の早い日本人の事です。焼け野原から復興し、進駐軍が作ってくれた平和憲法の下ですっかり生まれ変わった気になっているのかも知れませんが、日本は50数年前までは世界に名だたる戦争国家だったことを忘れてはいけないと思います。私はもちろん戦争を知らない世代ですが、子供の頃は傷痍軍人が白い着物を着て物乞いをしている姿があちこちに見られましたし、遺骨収集団が南の島へ行くニュースを繰り返しテレビのニュースでやっていたのを覚えています。
日本の重くて暑い夏。終戦記念日の翌日は私の誕生日です。この日で旧盆も終わり、だいたい暑さも峠を越します。
2002.08.13
河口容子