中高年のワーキング・スタイル

 政府は景気は底入れしたと発表するものの、雇用状況については依然として誰しも不安を持っているのではないでしょうか。昨年あたりまでは、失業率の高さが実感できないほど、私の周辺には60代といえど職のない人はほとんどいませんでした。最近は50代前後で最前線で仕事をしてきた人の突然の退職や30代の離職もちらほら目にします。それも「なぜあの人が」というような優秀な人が失業したままだったりもします。一方、運良く景気のいい企業に勤務していたおかげで何もせずとも安泰な暮らしを送っている人もいます。まだまだ日本は実力主義ではないことを痛感させられます。国内外を問わず合併や業務提携が進む中、今ある仕事をなくす人はまだまだ増えるものと危惧します。

 私は若いころから米国人の知人友人に「日本人はどうして一生会社の雇われ人でいたいのか。」とよくたずねられました。米国人には会社員は独立するためのステップと考える人が多いようです。私自身は、体も丈夫ではなかったので夜討ち朝駆けの世界は絶対停年までは務まらないとふんでいました。就職した頃はすでに総合商社冬の時代に入っていましたので、20代の頃からもし首になったり、健康上の問題で会社を辞めざるを得なくなったらどうするか漠然と考えながらやって来ました。上司や先輩の中には「そういう計画的な生き方は欧米人には通用するが、日本では無理だ。日本では流されることが大切。」と得々と教えてくれる人もいました。正直なところ、そうおっしゃった方々は現在流され放しでお困りのようです。

 取締役、社長と昇進してサラリーマンの王道を行く人、地道にこつこつ仕事をして停年を迎える、それぞれ立派な人生であるとは思いますが、何らかの事情で会社を去らねばならず、次の選択が「またどこかで雇われる」ことしかない、というのは立派な大人として寂しすぎる気もします。生活のためには仕方がない、それもぜいたくをしてきたわけではないのに蓄えもない、というのなら社会のしくみに大いに疑問を持つべきです。それは自営業や起業家はリスクを背おうのにも拘わらず報われないという何よりもの証拠であり、それでは経済の活性化は進まないからです。

 オリックスが中高年の雇用を促進するという方針を出しました。今までの経験を即戦力に生かし、時給制、日給制、管理職の登用までと実にフレキシブルな雇用のしかたです。企業で長年勤務した人には何か特技があるはずです。それを生かさない方法はありません。仕事はすべて毎日フルタイムかける必要があるものばかりではありません。必要な仕事を必要な時間だけ、しかも得意な人にやってもらえば合理化につながります。

 また、働く方も今までのように1社に丸ががえしてもらうばかりではなく、自分にあったワーキング・スタイルが可能となります。2社、3社を掛け持ちして得意分野を発揮するのもいいでしょう。これもワーク・シェアリングです。仕事をする時間を減らし、趣味や家族のための時間をふやすという事もできます。多様化したワーキング・スタイルは自分にあったライフ・スタイルを作りだしてくれるはずです。それが不安、そんなことを今まで考えたこともなかったという人は会社にパラサイトしていた人です。先週の続きではないですが会社と個人の境界認識ができていなかった人かも知れません。

2002.05.23

河口容子

境界認識

 瀋陽の日本領事館に北朝鮮の亡命者たちが駆け込み、館内まで中国警察が入りこみ彼ら逮捕したというニュースは衝撃的でした。領事館員たちはまるでケンカの見物人状態で、中には腕組みをして見、途中で建物へ引き返して行く人もいました。その様子に緊迫感など感じられず、ましてや駆け込むのに遅れた子ども連れの女性に対し人間的ないたわりを見せることもありませんでした。「大使館の中は治外法権」というのは、学校で誰でも習った記憶があるはずです。つまり、領事館内は小さな日本で、領土であるという権利があるなら、それを守る責任も義務もあるわけです。やれやれ、ややこしいことを自分たちがしなくてすんだ、どうやってレポートしておけば丸く収まるか考えてでもいたのでしょうか。ところが、メディアは見逃しませんでした。映像が世界中に公開され、騒動になってからおろおろと外務省が動き出す始末です。

 これに関連して思い出したのはペルーの日本大使館の人質事件です。私の知人が二人最後まで人質になっていました。当時のフジモリ大統領指揮するペルー国軍による救出劇がなければどうなっていたかわかりません。危険を知りながら無防備でどんちゃんパーティをやり、ゲリラに襲われたから誰か助けに来てくれ、という無責任な国は主権国家とは言えないかも知れません。

 日本人は境界認識があいまいです。島国であるため、「国境」に物理的にナーバスになる必要がありません。海の「向こう」と「こちら」にその時の都合にあわせ、切り分けて概念的に捉えることができます。物理的な「境界」という認識に対する弱さが上記のような事件をひきおこしている気がします。

 それに西洋人のような「契約」の概念もありません。基礎となるのは神と個人との契約だそうですが、そもそも個人と個人の境界は、成長するに従い、家族、学校、社会、国家とどんどん大きな集団の境界をもあわせ持つようになり、これにはまた、それぞれの権利、義務、責任を持っており、その集団の構成要因が担わなければなりません。ところが日本は戦後民主主義のはき違えで、なぜか「自由」と「権利」ばかりが声高に叫ばれ、「義務」や「責任」は暗く重たく、できれば逃れたいものの代名詞のように思われてきました。こういう誤った教育が日本の無秩序につながっているのではないでしょうか。

 最近、痛感するのは親切にしたり、親しくなると、ずるずる甘えるというか個人と個人の境界がなくなり、権利はすべてあちらに、義務と責任はこちらに移動している場合が多々あることです。そのたびに私は相手に注意をします。そうするとだいたいは元の位置に境界は戻ります。昔なら時々反省をして自分で修正をするという機能が働いた気がしますが、今は注意をする、場合によっては怒鳴らないと修正がきかなくなっています。重症になると、理解すらしてもらえない、逆にこちらが間違っているのか、と反省に追い込まれたりする始末です。

 この「境界」という概念はエゴという意味ではありません。権利があると同時に責任と義務も必ずつきまとうものです。特に日本人は何かこわいもののように、あいまいにしてしまいがちですが、「大人」になるためには必要な認識のひとつだと私は思います。

2002.05.16

河口容子