アセアンの国から -1-

  3月 5日から20日まで、ある国際機関の仕事でマレーシア、インドネシア、フィリピンに出張しました。日本のニュースは新聞や衛星放送で見ることはできるのですが、周囲の景色が違うせいか何となく実感がありませんでした。3週にわたり、アセアンの国々から感じた日本について書かせていただこうと思います。

 まず、最初の訪問国マレーシアでの初日の仕事はホテルで政府機関が主催するセミナーの講師です。マレーシアには早くから家電・エレクトロニクス産業が進出したので大丈夫だろうと思い、事務局に対し、パワーポイントやインターネットの画面を大型スクリーンに投影する設備の依頼をしてみました。ぶっつけ本番できちんと作動したのにはうれしい驚きでした。

 多民族融合国家だけあって、マレー系、中国系、インド系とさまざまな中小企業からの参加者があり、モスレムのベールをかぶった民族衣装の女性たちもまざっていました。セミナーは進行も含めすべて英語、渡される資料もすべて英語です。質疑応答の時間になると次々に質問が飛んできます。英語の上手下手より、とにかくコミュニケートしようとする努力と熱意がひしひしと伝わってきました。日本でこのようなセミナーを開催してもまず言語的にむずかしいでしょう。「国際化」と言いつつ、英語教育すら追いついていないのが日本の現状です。

 私は日本人の性格、デリケートさ(悪く言えばあいまいさ)や手早い(悪く言えばせっかち)という部分は、四季の変化に常に対応していなければならないという気候条件のせいだと思っています。赤道付近の国々は、四季の変化もなく、年中昼と夜の時間の長さも同じです。しかも夕暮れなど、日本ではしだいに暮れていく微妙な空の色の変化を楽しめますが、こちらではどすんと黒い幕をおろされたようにあっという間に夜になってしまいます。朝日にしてもぐんぐん昇っていくのが肉眼で見えます。これが地球の自転のスピードです。また、日本では記憶も季節を告げる花や木の葉、風、空気感といった自然の移ろいとともにあり、逆にここではそれがありません。この単調さの繰り返しの中で生活している人々が大らかで多少大雑把になるのも自然のなせるわざでしょう。

 事務局の政府機関の女性管理職にたずねたところ、洋服をテーラーに仕立てさせ1ケ月も待つこともあるとか。これでは日本では着る機会を失うこともあり得ます。逆に彼女には、日本は家が狭いのにどうやってそんなにたくさんの物を収納するのか、という質問を受けてしまいました。

一家に子ども 4人が普通というのも未来のパワーを感じさせられました。そのせいか、子ども用品の売り場がやたらと目につきます。日本は子どもが多い時代にはこのような工業製品がなく、工業製品が出回るような時代には少子化になっていたため、このような光景は初めて見る気がしました。

 日本人が四季に追い回されている間に、彼らはゆっくり長い目で着々と準備をすすめている、そんなたくましさと怖さを同時に感じました。

2002.03.28

河口容子

ソルトレークで日本がわかる

 このエッセイを始めたころ、シドニー・オリンピックがありました。今度は冬のオリンピックがやって来ました。長引く不況に、増加する失業、疑惑がつのる政官そして一部の民の癒着とどこを向いても不安や怒りがこみあげる時代背景の中、ウインター・スポーツの祭典、ソルトレーク・オリンピックは一抹の清涼剤として誰もが明るい感動を期待していたはずです。ところが、ふたを開ければ、日本にとってみれば失望とオリンピックのあり方についても疑惑だけが残り、後味の悪いイベントとなりました。

 まず、長野のメダル10個が単なる偶然、あるいはホームでの有利さだけとしか思えない少なさ。私自身ははメダルの数にはこだわっていないものの、里谷選手、清水選手のふたりが長野の金を色を変えての受賞のみ。2回連続ということでこれはすばらしい記録ではありますが、次のエースに座を譲るというわけでもなく、「将来の組み立て」に苦心する日本の姿そのもののように見えました。

 マスコミのはしゃぎすぎ。彼らは日本選手の本当の実力を知っていたのでしょうか。「メダルが取れるかも知れない。」と大げさに騒ぎたて、当のご本人たちも「その気になった甘さ」があったのではないでしょうか。よく職場で見かける自信過剰の若者、いざやらせて見るとふだんその若者が軽蔑しているような簡単な仕事さえ、まともにできない、そこで今度は自信喪失に陥るといったシーンまでオーバーラップしました。私はそういう若者を見かけると親御さんが過保護だったのだな、と思います。

 あいつぐ審判の不祥事もありました。審判は公正忠実な仕事ぶりで大会を支える重要な役割をになっています。もともとフィギュアで芸術的な「印象」を点数に換算すること自体が無理で、容姿や衣装も影響するはずです。平たく言えば「好み」の世界、不公平は最初からわかっている気がします。技術力と芸術性のどこに線を引き、融合させるかが今後の課題です。また、ショートトラックでの日本や韓国選手に対する失格は欧米優位主義イコールアジア蔑視が見え見えでした。日本の経済力がもっと強かった次代ならこんな意地悪はされなかったのではないかともふと思いました。

 実は子どもの頃からずっと疑問に思っていたのはウインター・スポーツだけでどうしてオリンピックがあるのかということです。それでもいつの日か熱帯の国々も冬季オリンピックに現れるかも知れないと夢を持っていました。今の冬季オリンピックの種目はそもそも欧米のものです。しかも一定の気候条件が必要で用具も施設も必要です。日本は1億2000万の人口がいますが、この先進国でもそんな条件に恵まれた人がどれほどいるでしょうか。一方、夏のオリンピックは身体能力さえ優れていれば出場できる種目はいくつもあります。  国際大会が少なかった昔、確かにオリンピックは楽しみだったし、多くの人がスキーやスケートになじむきっかけともなったことでしょう。毎回テレビの放映権はつり上がってビジネスとしてのオリンピックになり、欧米だけでメダルを分けあって喜んでいるようなら今の南北問題、地球を一握りの北半球に住む人々が牛耳っている構図を再確認するだけのものとなってしまいそうです。

2002.03.21

河口容子