歌が教えてくれたこと

私の住んでいる地域では月に1度コンサートが開かれています。演奏者はプロ、アマを問わず地域にゆかりのある人々で、入場料は無料です。せいぜい室内楽の規模までですが、老若男女ふだん着でクラシックに接することができます。さて、1月のコンサートは声楽で、来場者も一緒に10曲ほど歌いました。

 その中で「燈台守」という歌がありました。久しく忘れていた私の好きな歌です。「こおれる月影」という歌詞から始まる歌といえばおわかりになる方も多いかと思います。「思えよ、燈台守る人の尊きやさしき愛のこころ」という後半では涙が出てしまいました。子供の頃、音楽の先生がこの歌を教えてくれる際、燈台守がいかに大変な仕事か、そして皆の気づかないような所で一生懸命働いてくれる人がいるから、安全に快適に暮らせることを、社会はそうやって皆で支えあっているものであることを説明してくれました。

 なぜか私は労働の歌が好きでした。「炭坑節」や「村の鍛冶屋」では炭鉱夫や鍛冶屋という職業を知ることができたし、「灯火近く衣ぬう母は」で始まる「冬の夜」や「かあさんが夜なべして手袋編んでくれた」という「かあさんの歌」はいつ聞いてもしんみりします。昔の歌にはそんな勤労の美しさをたたえた歌が多く、歌に教えられたことも多かった気がします。

 歌は世につれというごとく、燈台も機械で制御されるようになったでしょうし、最近日本最後の炭鉱も閉山し、田舎に行っても鍛冶屋はなく、ましてや夜なべして裁縫や編み物をしてくれる母親も激減したのか、このような歌はいつしか歌われなくなりました。最近の歌といえば抽象的な内容の雰囲気だけのものが主流になってしまいました。「与作」や漁師を歌ったものなど演歌の一部にしか労働の歌はありません。

 昔は、まずはなりたい職業があって、精進した結果として金持ちになったり、有名になったりするものだと教えられたものです。最近の子どもに将来何になりたいかたずねると、「金持ちになりたい」「有名になりたい」と答える子どもがかなりいるそうです。正直と言えばそれまでですが、特にバブル以降、お金さえあれば、有名になれれば、手段を選ばずという風潮は強くなってきたのではないでしょうか。 

 そんな風潮の中で、いわゆる3K(きつい、きたない、危険)な職業には誰も就きたがりません。失業率の高さを叫びつつ、一方では外国人労働者はますます増えていると聞きます。雇用側のコスト削減もあるのでしょうが、第一に日本人の就労者がないのだそうです。外国人研修生を入れて賃金体系が下がりきってしまうと日本人はますますそういう職種には就かなくなります。

 仕事のできる人というのは自分の使命や社会での役割を正しく認識している人のことで、自分の利益や体裁だけを追求している人ではありません。政治家からサラリーマン、公務員にいたるまでタテマエは美しいことを言いながらホンネは自分のことだけしか考えていない人がいかに多いことでしょうか。勤労の美徳や社会、家族への奉仕を歌った昔の歌を時には思い出し、後世に伝えていきたいものです。

2002.01.31

河口容子

成人式の意味

 昨年の各地の成人式での出席者の「暴動」に恐れをなして、各地方公共団体は知恵をいろいろ絞ったようですが、なぜそんなに20歳になっただけの子供たちに周囲の大人が戦々恐々としなければならないのか、おかしなニュースに思えてなりませんでした。

 成人式が始まったのは1948年だそうです。ちなみに1947年の平均寿命が男性50歳台、女性53歳台です。当時の人生の長さから言えば20歳はかなりの「大人」でなければならなかった訳です。長命となった現在では30歳前半くらいのところに位置します。式場で暴れている若者の感覚からすれば20歳で大人にできあがってしまうと大人としての人生があまりにも長すぎて辛いのかも知れません。

 短大も含めた大学進学率が 5割を越した現在、半数以上はまだ学生で大人として自立したという意識が持てないでしょう。選挙権の20歳は単なる線引きです。運転免許の18歳との2歳差はどういう根拠があってそうなるのでしょうか。お酒、タバコの解禁についても、20歳未満で堂々と飲酒、喫煙している子供は山のようにいます。

 確かに始まった当時の成人式には意味があったと思います。複興の担い手である若人が集まることは、戦争で傷ついた人々の希望の星であったことでしょう。また、イベントのない時代、ふだん会えない同級生や友人に会え、少しぜいたくをするといった楽しみもあったろうと推測します。

 女性につきものの晴れ着は1960年あたりから流行し始めたと聞きます。当時百貨店が広めたとのことですが、豊かさの象徴として大衆にすんなり受け入れられたようです。それから、晴れ着を作ってやるのが楽しみな母親や高卒で働き出して成人式の着物のために貯金をする女性など、式が見栄を競う場と化し、それに群がる美容室、着付けサービス、レンタル着物など一大ビジネス・チャンスともなり、成人式本来の意味は薄れてしまっているような気がします。

 テレビであるコメンテーターが、「せっかく50年以上続いたのだから何とか維持してほしい。」というようなことを言っていました。 500年以上続いた日本の伝統を後世に伝えるような行事ならともかく、税金で若者に暴れたり、晴れ着のファッションショーとなる会場を提供し続けることにそんなに意義があるのでしょうか。単なる形式主義としか思えません。

 成熟した社会では多様な人間がいます。スポーツ、芸術、芸能などのジャンルでは大人顔負けの仕事をし、精神的にもしっかりした未成年がいる一方、何歳になっても親から自立できない人もたくさんいます。

 ちなみに私は成人式はしませんでした。奨学金とアルバイトでやっと大学に行け、節約した残りのお金を家族のために使っていましたのでそんな「余計なこと」をする余裕はありませんでした。今でもさまざまな理由で成人式を祝えない人は少なからずいるはずです。行政というのはむしろそういう人々に配慮する機関であるべきというのが私の持論です。

2002.01.25

河口容子