平和ボケのぜいたく

 連日連夜報道されるアフガニスタン難民の姿には絶句するものがあります。過酷な自然、そして貧困。冷戦構造の終結とともにすっかり忘れられた人々の映像がよみがえってきました。人道的支援といっても先進国は国益に結びつかない限り何もしないという事実を突きつけられた思いです。オサマ・ビン・ラディンがいなければ彼らはずっと見捨てられた存在であったかも知れません。幼い子供たちの懸命に生きようとする姿、そして時折見せる笑顔には幸福を見出す能力を誰もが持っていることを教えてくれます。

 「不況」「不況」と日本では騒いでいますが、あのようなきびしい生活を強いられている人はほとんど皆無でしょう。それなのに文句ばかり言っています。平和で豊かで(バブルの時代に比べれば不況かも知れませんが、その前に比べれば皆豊かな生活をエンジョイしているはずです。)、幸福感などちょっとやそっとでは感じなくなってしまっている日本人のおろかさを反省することしきりです。

 アフガニスタン空爆の始まる前にイスラエルの取引先と電話でこんな話をしました。「戦争はほんとうに始まると思いますか。長引けば世界中が不況になるのではないでしょうか。」と不安がる私にその人は言いました。「先のことをくよくよ考えてどうするのだ。今日一生懸命働き、そして眠る。明日目がさめればまた一生懸命働く。その繰り返しができればいいではないか。自分のなすべきことを一生懸命やればいいのだよ。」この一見呑気とも言える発言に、日々精一杯悔いなく過ごそうとするイスラエルの民の生活をかいま見たような気がしました。私たちは明日もあさっても今日と同じように当然のごとくやって来るものとしてとらえています。だから余計な心配をするゆとりが出てくる、つい怠惰になってしまったりもする、そんな気がしました。

 一方、広島の被爆者によるアフガニスタン空爆反対のすわりこみのニュースをテレビで見ました。当然高齢のかたがたばかりでしたが、抗議というよりも戦争を経験した者だけが知る祈りに見えました。考えれば、戦後56年、日本では戦争の体験者はすでにリタイアされています。米国の企業などに行くと幹部どうしがベトナム戦争の戦友であるとか、若い人ならば家族が湾岸戦争に従軍したというような話を耳にします。オフィスの中でいまだに戦争が身近なものとして語られるという風土の違いは日本人との決定的な差のように思えました。

 パキスタンをはじめアフガニスタンの周辺諸国は米国側につくことにより、日本も含め多額の援助を引き出しています。これもまた、オサマ・ビン・ラディンのおかげと言えば皮肉な話ですが、皆生きるために必死に行動しています。日本の国会のやり取りなどを見ていると、やはり以前このエッセイでも書いてきたような「その場しのぎ」や「他人事」の感を否めません。平和ボケのぜいたくとでもいいましょうか。これからは地域紛争やテロの時代とはわかりきっていたはずです。なぜ国家としてあるべき基本的な姿勢を考えて来なかったのでしょう。読者の方からもご意見をいただきましたが、日本の景気の建て直しも立派な国際貢献のひとつです。国際社会が期待しているのは「衣食足って礼節を知る」国家としての高邁な精神、品位ある行動だと思います。

2001.10.25

河口容子

他人事

 会社員のころ、もっとも嫌なタイプの上司は「当事者意識のない人」でした。自分のレベルでは解決できない問題が出て来ると当然のことながら上司に相談に行きます。「ああ、そう困ったね。大変だね。」と言われたきりで大変がっかりしたことが何度もありました。私は同意をしてもらいたかったのでも、ましてや同情をしてほしかったのではなく、責任者としての指示やアドバイスがほしかったから相談したのですから。  組織の中には、自分のふだんの業績は棚にあげ、周囲の人々のことを評論家よろしく批判ばかりしている人もいます。また、誰かが犠牲となって支えてくれているのにあぐらをかいて自分だけエンジョイしている人もいます。「自分に被害が被らない限りすべて他人事。」という人たちです。「悪貨が良貨を駆逐する」かのようにこういうマインドの人がふえれば、一生懸命努力する人が報われないどころか組織全体が腐ってしまいます。

 狂牛病に関する農水省の対応もそんな気がしました。イギリスでは10年以上も対策に苦しんで来たというのにおそらく「日本には起こりえない」とたかをくくっていたのでしょう。感染源や原因が特定できないにも拘わらず、「安全」と大臣が霜降り肉を食べて見せてくれても100%納得はできません。これから食べるものは安全だとしても過去食べた分はどうなんでしょう?

気がつけば特に加工食品に含まれている添加物に表記されている物質は何からできているかわからないものがたくさんあります。昔、家で素材から調理をしていた時代は自分の食べているものが何かわからないことはありませんでしたが、利便性と引き換えにどんどん安全性を失っているのかも知れません。

 昨年夏、牛乳の食中毒事件のさなか多くの食品メーカーにユニフォームを納品している会社の方とお話をしたことがあります。私は一消費者の観点でユニフォームの管理はそれぞれのメーカーできちんとなされていると信じていたのですが、不況で企業から従業員個人の管理に移りつつあること、たとえば毎日洗濯したユニフォームを着なければいけないというルールがあっても何日も洗濯しない従業員はいる、そこまで管理はできない、という事実を知ったときには唖然としました。

 また、ある農家では出荷する分は見栄えをよくするために農薬をふんだんに使い、自家用は農薬を使わず栽培しているという話も聞きました。すべて経済性が優先され、安全性は自分に及ばない限り他人事なのです。薬害エイズ問題に至っては被害者が血友病患者に特定されるだけになおさらこの感を強くします。

 米国でおこった同時テロ事件、アフガニスタンへの空爆、すべて他人事ではありません。地下鉄サリン事件は被害者には深い傷を残し、被害にあわなかった人にとってはすでに忘れかかったニュースになっています。平和憲法のもと戦争は仕掛けなくても仕掛けられる可能性はいくらでもあるのです。平和も長く続けばそのありがたさを忘れ、無防備で無関心になる、これは危険な事です。

2001.10.18

河口容子