外相というお仕事

 田中外相の出現により一躍話題になったのが「外相というお仕事」についてです。外務省内の連続不祥事をめぐる人事問題については、めまぐるしく動く国際情勢の中にあって内向き過ぎるのではないか、本来やるべき事はもっとあるべきなのではないかとの批判もかなりありました。

 私は外相の仕事というのは営業の管理職や責任者と立場が似ているとふと思いました。営業という仕事は外部から利益を獲得するのが仕事です。しかし、営業で売上や利益を上げるには、サポート体制の強化が必要です。豪腕の営業マンは売上を上げるためには社内の伝票担当者や物流担当者に無理難題をふっかけ、てんてこまいさせるものの、その部署の成績はいいので皆おとなしく従わざるを得ないというのがよくあるパターンではないでしょうか。気配りのできる営業マンであるなら、社内のサポート体制を強化し、味方につけることにより、自分の営業活動をやり易くするということも考えるでしょう。そういう意味から田中外相の内部に手をつけるというのは誤った手法ではないと思いました。

 女性がトップに座ったときの問題点は豪腕で引っ張るという手法が使えないことにあります。「豪放磊落」は男性にはほめ言葉として使われますが、女性には通用しません。自分自身の経験からでもありますが、女性である以上「きめの細かさ、他人への配慮、粘り強さ」を売り物にできなければ通用しません。たたきあげの女性トップなら自ずと身につけていますが田中外相は宰相の娘という恵まれた立場に生まれたがゆえに理解しておらず、人前で部下を叱りつける、嫌味を言うなどという横暴な態度が不快感を呼んだものと思われます。

 大企業もそうであるように、男性社会というのは保守的で「今まで問題がなかったのだからやり方を変える必要性はない。」という合理主義、つまり改善されるかも知れないがリスクもあるのならやらない方がましだ、問題があれば変えればいいという発想と、「辛くても仕事なんだからやれ、自分だって大変なんだから。」という他人に対する冷たい割り切りと「まあ、そのくらい大目に見てやるよ。役得なんだから。」という寛容さがミックスしているような気がします。その辺は社会進出の歴史が浅い女性には、あるいは性差から来るものかも知れませんが、なかなか理解できない構図になっています。

 私が思うに女性の方がどんな些細なことでも向上心を持っており、他人への同情心や公平さに対する希求も男性よりは強い気がします。しかし、生真面目さだけで世の中は渡れないということを知りません。女性が男性社会で対等に働く、あるいはトップに就く場合、注意しなければいけないのは「パンドラの箱」にしないことです。やる気満々、能力もある、何か変えてやろうと禁断の箱を開けてしまうと次から次へとこの世の悪と災いが箱の中から飛び出し収拾がつかなくなってしまい、最後に希望だけが箱の中に閉じ込められたというこのギリシア神話のようにならないことを祈ります。

 経済力がある割にはなぜか国際社会で存在感を認められない日本。天然資源に乏しく、地理的にも翻弄されがちなこの島国をどうしたら上手に生かすか、思えば外相のお仕事とは国家の存亡を左右するものかも知れません。

2001.08.31

河口容子

その場しのぎ

 夏になるとお決まりのように出現する首相の靖国参拝ニュース、今年は国民的アイドル小泉首相とあってふだんは政治に見向きもしない人々までがその行方を関心を持って見守りました。結果は何のことはない、前倒しでの参拝ということで裏をかかれた気持ちになりました。論議を尽くさず、回答を出さず、その場しのぎ、事なかれ主義、つまり日本のお家芸で幕が引かれ、国民は何事もなかったかのように秋を迎え、来年の夏までこの話題は忘れ去られてしまうのでしょう。

 毎年、毎年同じ問題が出るのに誰も何もしない、これは莫大な時間のロスであり、何も進歩がありません。今年は中曽根首相が参拝した時は神道の形式をはずしたが、神官は陰払いをしたという暴露話や小泉首相の参拝を反対した田中外相も実は参拝していたなどのニュースが流れ、問題の本筋とは違うワイドショー的話題に方向転換してしまいました。

 私が思うことはふたつあります。まず、「政教分離」と言うものの、日本人のほとんどは結婚式はキリスト教、お葬式は仏教、年始には神社へ初詣、というような宗教意識の乏しい国民です。ここでいう「政教分離」というのはむしろ一定の宗教に左右されない、という程度の意味ではないでしょうか。しかし、選挙ではいろいろな宗教団体が票田として影響力をもつことも事実で、実は政治家と宗教は切り離せないものなのかも知れません。

 もうひとつは、太平洋戦争で犠牲になった多くの人々に哀悼の意を表す気持ちと平和を希求する気持ちは誰もが共通だと思います。宗教や国籍にかかわらず誰もが訪れることのできるメモリアル・パークのようなものをなぜ作らないのかということです。私の父は学徒出陣しました。母は女学校が工場になり軍服の縫製に動員されていました。また、祖母は広島で被爆しました。戦争の話をよく聞かせてくれた母も70才を越し、さすがにめったに話題にしなくなりました。先週の話題、ホンネとタテマエではないですが、当時の誰もがホンネでは戦争などに巻き込まれたくない、召集された人々は生きて元気に家族のもとに帰りたいと思っていたに違いありません。そう考えるとタテマエにマインド・コントロールされた異様な時代があったことを封印してはならない気がします。

 その場しのぎ、場当たり主義(良く言えば臨機応変かも知れませんが問題の先送り)は、政治のみでなく、日本のどこにでも見られます。要するにこの国民は深く考えない、論議を避けたがる傾向があります。そして何とか納まりのつく方法を安易に考えてしまう。周囲は満足でもなく、特にきわだった不満もない。この方程式であまたの問題がいつまでたっても解決されず、山積しているのが現代ではないでしょうか。

 何かを解決する、改善するにはたくさんのエネルギーと勇気がいります。それをやっていかなければ、考える力のない人間ばかりができてしまいます。何があっても無反応、ただ時代に流されていくだけです。私がこのエッセイを書き始めたきっかけもそうです。日本人はニュースが好き、だけど本質を深く考えていません。ニュースこそあなたの今生きている時代を映す鑑なのに。

2001.08.24

河口容子