6月の第三日曜日は「父の日」でした。母の日はあんなに派手に騒ぐにのに父の日はなぜかいつまでたっても地味です。私はきっとバレンタインデ-に対するホワイトデーのような商業主義により無理やり作られたのだと思っていましたが、このエッセイを発行してくれているデジタルたまごやさんの「冠婚葬祭TIPS」によると1910年アメリカのJ.B.ドット夫人が年々母の日がさかんになるのを見て男女平等の見地から父の日として実父の墓前に白いバラをそなえたのが発端だそうです。
一方、母の日は古代ギリシアからあったという説もあり、世界の数十ケ国でイベントとなっていると聞きます。カトリックの聖母信仰も含めて考えると母親の存在感は父親のそれとは比較にならないほど「格上」です。母子関係というのはよほどの理由がない限り明確ですが、父子関係というのは「自分の子どもと思っていたが実は違った」という話がよくあるごとく父親だと信じているから父親をしていられるわけで、母親のもつリアリティとはまた違うもののような気もするし、その分広く大らかでいられるのではないでしょうか。
小学校4年の時に父を亡くした私は、父親のいる家庭というのをほとんど知りません。父の日の思い出というと一緒に暮らしていた祖父に母と一緒にいつもプレゼントを贈っていたことです。妻子(祖母と父のことです)を相次いで亡くした祖父でしたが88才で亡くなる少し前まで風邪をひくことすら珍しいほど元気で長生きしてくれたのも残された嫁や孫を守ってやろうという父性の顕れであったように思います。
その祖父も亡くなると、一般的な家庭で父親や男性のやっている役割は母と私とですることになりました。収入の確保、将来に備えての蓄え、家の維持、交渉ごと、役所などの手続き、家具を運ぶなどの力仕事や大工仕事、電気製品の修理など。もちろん家事もしますし、刺繍、レース編み、ミシンかけも普通の女性よりは得意だと思います。旧来の「女性の役割」という枠を放てば女性はどんどん多角的に発展する生き物のような気がします。
昔は男性優位の社会、経済力や知識、社会経験で女性をしのぐことが出来たし、社会がそういう仕組みになっていました。今は奥さんの方が地位も経済力もあるカップルもいます。自衛官や建築現場のような専門能力とともに体力的な強さが求められる職場にも女性がどんどん進出しています。その中で男性は生きる方向性を失っている気がしてなりません。美しく着飾り女性に媚びて生きているような単にやさしいだけの若者も多く見受けられます。
街で家族の買い物や食事に喜んでお金を出しているお父さん、子どもの進学や結婚に真剣に悩んでいるお父さんを見るたびに私とは一生縁のない世界だと思うと同時にそこまでしてどうして尊重されないのだろう、と不思議でたまりません。父権というのは女性が社会進出したり自由に行動できるようになっただけでそんなにもろく崩れ去るような程度のものだったのでしょうか。空威張りは嫌ですが、家族の笑い者になったり、機嫌を取って暮らす必要はないと思います。父の日とは家族にとっては普段気づかないありがたさを感謝する日、父にとっても親としてそのあり方を問う日であってほしいものです。
2001.06.22
河口容子