大ヒット商品小泉内閣

小泉内閣の支持率は何と前代未聞の80%を越すものです。ある統計では90%を超えたと聞きます。商品でも市場占有率が80%を越すことはめったになく、もしあったとすればほとんど独占に近い形となります。失礼ながら商品にたとえていうなれば21世紀初の超大ヒット商品「小泉内閣」であります。なぜヒット商品となったのか私なりに分析してみました。

 「有名ブランドのアバンギャルド的新製品」。確かに戦後ずっと続いた密室の総裁選、そして各派閥から順番に現れる閣僚、官僚が用意する紙を読みあげ時間の無駄としか思えない質疑応答を繰り返す国会、そして相次ぐスキャンダルや黒い影。長引く不況の下で、国民が急速に政治離れ、いや見放してしまったのも無理はありません。今回国民が小泉氏に絶大なるエールを送ったのは絶望感の中の唯一の光に見えたからかも知れません。それも一応自民党という伝統ある有名ブランドの新製品というところで、いきなり野党政権というリスクよりそれなりの安心感もあります。

 「正義感のお坊ちゃま、お嬢様」。田中外相は「国民の目線」という言葉を使いましたが、この宰相のお嬢さんは庶民の生活など実感はないでしょう、また小泉首相にしても3代目の政治家一家のお坊ちゃんで本来は体制側にいる人たちです。庶民とはほど遠い存在なのに正義感に燃えて悪習と戦うという所が水戸黄門や大岡越前を生んだ日本人にアピールしやすい「商品力」だと思います。

 「女性の活力を利用」。先進国の内閣でもこれだけ実力派の女性閣僚がしかも重要ポストに勢ぞろいした国はないでしょう。日本人女性の国際的な活躍は芸術、スポーツの世界では有名ですが、今回、改めて閣僚にふさわしい女性の人材はたくさんいるものだと感心しました。日本を代表するような大手企業の役員会にも複数の女性役員がいるのが普通になる日も遠くはないでしょう。

「テレビ型内閣」。小泉首相、田中外相はもちろんのこと、竹中大臣、石原大臣、そして塩爺こと塩川大臣など自分の言葉でわかりやすく語れ、型にはまらないキャラクターの持ち主です。国民からすればタレントのように身近で見ていて楽しい。自民党内ではマイナーな立場にある人たちだけにテレビを活用して国民を味方につけるというのは賢いやり方だと思いますが、何が引き金になって人気が失墜するか不安な要素も大きいという気がします。今後は政治家もタレントの事務所のようなスタッフが必要かも知れません。

 「改革には痛みを伴う」と小泉首相は言いました。わかっていることとはいえ「総論賛成、各論反対」のこの国で痛みを味わう立場になった人たちがずっとこの政権を支持するとは思えません。利権を握っているおじさんたちに最終的には倒されてしまうのではないか。そして最終的には改革できないまま終わってしまうのではないか。そういうあやうさもこの内閣の魅力のひとつです。

 最後に小泉内閣は自然の成り行きとして生まれたとしたらあまりにもタイミングが好すぎる気がしますし、仕掛け人がいるとしたらきっとマーケティングの天才だろうと思います。いずれにせよ、早く具体策を提示し「将来に明るい希望のもてる日本」にしてもらいたいものです。

2001.06.08

河口容子

メル友

 初めてインターネットが怖いと思ったのは自殺に関するサイトで知り合った二人が心中した事件です。いくら関心事が同じとはいえ、ほとんど会ったこともない二人が一緒に自殺するという展開に新しい事件の形を見た思いがしました。その後、出会い系サイトで知り合った男女の殺人事件があいついで起こっています。私などは会ったこともなく、その人のプロフィールも知らずメールの交換をすることにはとても抵抗のある人間ですが、出会い系サイトはどんどん増えています。

 まず、ハード面から携帯電話のメール機能の普及です。パソコンを持っていなくてもメールが使えるとなれば、学生、主婦、とあらゆる層の利用が可能となります。携帯でいきなり長文のメールを打つ人はそんなにいないので文章力に自信のない人でも抵抗がなく始められます。

 心理的な原因のひとつは「誰かにほんとうの自分を理解してほしい」という願望。家庭内や各人の属するコミュニティの人間関係が希薄、かつ穏やかなものになりすぎている現代では、自分が傷つきたくないから相手の期待する人間像という仮面を着て生活をすれば丸くおさまる、という変な賢さを子どもでさえ持っているような気がします。かわりに自分の実生活と関係ない所で自分の言うことを聞いてほしい、メールなら姿形も見えず声も知られることがない、手書きの文字でその人を表すこともない、という「完全犯罪」にも似た都合の良いツールであることです。

 もうひとつは「変身願望」や「ドラマ性への期待」。文章力があればあるほど理想的な自分を創り出せます。性別や年齢を偽ることも可能です。また、書くことにより自分の人生を見つめ直すと同時にドラマ性を見出す快感やよりドラマチックなことへの期待感も生まれてきます。自覚できる人はまだしも、書くという孤独な作業では知らず知らず虚飾の世界にはまってしまう人もあるでしょう。

私は中学生の頃カナダとインドに同い年のペンフレンドを持っていました。当時は1ケ月にやり取りが一往復すれば良い方です。この間の長さは実生活との隔たりをいやでも認識せざるを得なかったし、一生に一度会うのが夢みたいものでした。ところがメールではすぐ返事をもらうことも可能、あたかも電話で話しているような錯覚すらおぼえます。また、交通の手段の発達した現代なら会おうと思えばいつでも会えます。そこに仮想と現実の混在があり、事件につながる危険性をはらんでいるような気がします。

核家族化は他人との付き合い方を忘れさせてしまいます。言葉足らずでも親兄弟なら十二分に理解してくれ、そっと手を差し伸べてくれるからです。その延長で社会へ出てしまうと、堅苦しい相手とは話ができない大人や一人よがりばかりがふえ、「節度ある親しさ」というバランスのいい交際技術を持っている人はまれにしかいません。生きていく上で夢は必要です。自分の夢や空想に相手を引きずりこみ、あるいは相手の夢にメールならこのくらい平気と調子を合わせてしまうと、現実との乖離に気づいた時受ける衝撃は相手をこの世から抹殺してしまうくらいのパワーを持つのかも知れません。匙加減ひとつで薬にも毒にもなるように、文明の利器も使いかたひとつで命を救うこともできるし殺人にもつながることを思い知らされました。

2001.06.01

河口容子