松田聖子的人生

 「松田聖子的人生」が現代を生きる女性のあこがれとなっています。いくつになっても仕事に対する情熱を忘れず努力を怠らない、結婚もし(離婚もしましたが)、子どもも持ち、いつまでも恋をする、つまり生きたい放題、女として人間としてすべてを手に入れたい女性像です。普通だったらこんなに世を騒がせれば、悲壮感が漂ったり、時にはとんでもなく破天荒な女性に見えてもおかしくないのに、なぜか明るく笑い飛ばせてしまうようなキャラクターです。それもスーパーモデルのような容姿を持った女性ではない所が身近に感じられて良いのでしょう。一般女性からみればおそるべき「強運」の持ち主です。

 まずは仕事運、情熱や努力を忘れずにいられるようなやりがいのある仕事や職場を持てる人は恵まれていると思います。生活のためや惰性で勤め続ける人も多いし、キャリアアップできる転職の機会も年齢を重ねればますますむずかしくなります。低賃金の仕事や補助的な仕事は女性向きととらえる企業姿勢はさほど変わっていません。

 仕事か家庭か、これは日本女性にとっていまだに大きな問題です。会社員の頃、大学の後輩が相談にやって来ました。帰国子女で英検も1級を取っており、見るからに優秀な女子学生です。自分は総合職を受験したいが、母親が重病であるため家事負担を考えるとあきらめざるを得ないと言うのです。私は彼女のこれからの長い人生を考え、家事はお父様や高校生の弟さんにも手伝ってもらうわけにはいかないのか、何よりも大学で教鞭を取っていたお母様の意見を聞くようにと言いました。数ケ月後、晴れて総合職で入社してきた彼女は私の所に来て挨拶をし、お母様は他界されたけれども総合職に合格した娘をどんなに喜んで励ましてくれたかを伝えてくれました。

 さすがに結婚で退職することは少なくなりましたが、夫の転勤、出産と女性の試練は続きます。独身女性でも定年まで数えるようになってから直面せざるを得ないのは介護の問題です。親にとってみればお嫁さんより娘の方がいい、という心理はよくわかります。姉妹がいても身軽な独身の娘にウェイトがかかって来る例をいくつも見ています。こういう時には必ず「どうせ女の仕事なんて大したものではない。介護に専念して。」と軽く家族にいなされてしまいます。

 このように女性が仕事を続けようとすれば必ず「家庭」という問題に何度かはぶつかり、それを何とか乗り越えたり、時には上手にあきらめることで女性は人間として成長していくような気がしてなりません。女性にとって「仕事運」は「家庭運」でもあります。「金運」があれば家事労働的な諸問題のほとんどを金銭解決できます。働きたい女性にとっては東南アジアのように中流であればメイドさんを簡単に雇用できる国々がうらやましい限りです。

 最後に恋愛運。男性に依存する、いいなりになる、あるいは悪利用する女性は本当の恋愛はできないと思います。パートナーに対してエネルギーや幸福をわけ与えられる女性。そういう松田聖子的恋愛感が同性の共感を呼んでいると思います。運命までが勢い負けしてしまいそうなバイタリティ。さあ、運命に泣いてみますか、それとも自分自身をプロデュースして運命まで変えて見せますか。

2001.03.02

河口容子

失われたコミュニケーション

 先週は日本人の「所有欲」について勝手な考察をしました。この所有欲のおかげで新しいモノを次々と買うために日本人は勤勉に働いてきたし、メーカーも手かえ品かえ新製品を発明し、広告の手法もどんどん進化したので悪いことだと決めつけられませんが、何でもかんでも自分が所有してしまうと、何が起きるかを今週は考えてみたいと思います。モノを所有するといつでも好きな時に好きなように使えます。他人に気兼ねをする必要はないのです。

 昔、テレビが一家に一台しかなかった時代は「チャンネル争い」がつきものでした。子どもはアニメ、お母さんはドラマ、お父さんは野球と見たいものが違います。そこで話あいやルールぎめがなされます。電話にしてもそうでした。図書館で本を借りるには貸し出しの係りの人と会話をせねばなりませんし、ルールどおりに返却することや次に読む人のために本を汚さないことにも注意したものです。

 日本がだんだん豊かになり、いつしか一家にテレビは部屋の数ほどあり、電話も家庭の電話に子機、携帯とモノがあふれるようになると、もう遠慮はいりません。使うためのコミュニケーションもルールもなくなってしまいました。コミュニケーションがなくなると当然人間関係も希薄になってきます。これは家庭内のみならず、各人が所属しているコミュニティでも同様だと思います。昔なら家族の目が届かなくても近隣の人の目で犯罪の芽は摘み取られていたし、困ったときには必ず誰かが指導したり、面倒をみてくれていた気がします。

 何でも勝手にふるまえることに慣れてしまった現代人はがまんがきかなくなり、他人を気遣う心を忘れています。それが続発する幼児虐待やドメスティック・バイオレンスにつながっている気がします。

 都会に住んでいると何年も隣近所に住んでいるのに家族構成がわからない、職業も知らないといったことが普通です。こういった現象は家庭内にも及んでいます。このシリーズの第2回め「寒い家族」でも書かせていただきましたが、あるべき一言の会話がないために家族を死においやることもあります。一度希薄になった関係の修復はむずかしいものです。

 私が起業してから、ある雑誌の記事をご覧になった方々から起業の相談を電話で受けました。もちろん面識もない方々です。何らかのアドバイスをできればと思うもののその方のバックグラウンドは一切わかりません。家族や友人もいるはずなのになぜ見たこともない私に何度も電話をかけてまで相談したいのでしょう。確かに第三者の無責任なアドバイスが客観的な意見として参考になることはあります。ただ、ここに私は現代人の孤独を見た気がしました。家族や友人の見ているのはその人の肉体だけ、心の中までは見えていないと。

 通信手段のめざましい進歩で知りえなかった人とも交信できるというありがたい時代に生きながら、本来あるべきコミュニケーションが失われていくのはまったく皮肉なことです。

2001.02.23

河口容子